寺田寅彦と防災教育

連日の余震で大地震が首都圏を直撃するリスクが極めて高まっているように感じます。今回の大震災を通じて、我が祖国日本が地震列島であったことを全国民は否応なく再認識させられたわけです。メディアは日々拡大する激甚災害の詳細と原発リスクの顕在化の報道に追われ、何故先進国日本がかかる未曽有の国難を回避出来なかったのかという点を未だ検証しようとしないので少しこの点を考えてみたいと思います。

<天災は忘れた頃にやってくる>という隻語を遺した寺田寅彦が『天災と国防』と題する随筆の中でこんなことを云っています。全文を引用したいところですが、流石に長くなるので要点にとどめます。<地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁(ひんぱん)にわが国のように劇甚(げきじん)な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。>(中略)<たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡(ふくおか)に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状(まひしょうじょう)を惹起(じゃっき)する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫(はんらん)する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵(みじん)になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤(えんてい)が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸(か)れてしまうことになる。>(中略)<人類が進歩するに従って愛国心大和魂(やまとだましい)もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭(と)して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴(たっと)い日本魂(やまとだましい)であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫(こんちゅう)や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。>

昭和9(1934)年に書かれた本随筆において、寺田博士は的確に2011年3月11日に東日本全域を襲った地震及び津波災害の顛末を予想されています。翻って、今もブラウン管で訳知り顔でコメンテーターを務める学者連中の場当たり的な発言には呆れ返るばかりです。「被害が拡大したのは想定を超える規模の地震が襲ったからだ」という言葉ほど空虚に響くものはありません。堤防や原発の安全性を政府や自治体が徒に強調したことで被害が却って拡大したと云っても過言ではないでしょう。防災とは何かを考える以前に先ずもって大切なことは、自然の猛威の前では人類が築き上げた文明(或いはテクノロジー)などガラス細工の楼閣に過ぎないことを常に反芻することに尽きるのではないでしょうか。寺田博士や中谷宇吉郎博士のような偉大な学者が遺した名著から学べなかった政治家や技術者のせいで大勢の尊い命が喪われました。一市民としてこれから何をすべきかを真剣に考えたいと思います。そして、被災された皆さんには衷心よりお見舞い申し上げます。

寺田寅彦随筆集 (第5巻) (岩波文庫)

寺田寅彦随筆集 (第5巻) (岩波文庫)