『靖国神社の緑の隊長』(幻冬舎・2020年7月10日第1刷)は、半藤一利さんが亡くなる半年前に上梓された本です。『週刊文春』の編集者だった30代の半藤さんが、9ヶ月にわたって旧帝国陸海軍将校や兵士を尋ねて全国を駆けまわり、取材した体験談が基になっています。あとがきに、39篇の体験談からなる『人物太平洋戦争』から8篇を選んで、稿を改めたのが本書だとあります。
まえがきで、明治新政府の戦死者を祀る「東京招魂社」として創建された「靖国神社」の歴史が紹介されています。天皇の軍隊の一員として将校や兵士が戦死した場合にかぎって祀られるとされたため、戊辰戦争で敗北した旧幕府軍の戦死者(西郷隆盛や白虎隊など)や、太平洋戦争中に空襲や原爆で犠牲になった人々は祀られてはいません。昭和天皇は、1975年を最後に「靖国神社」を参拝しなくなりました。1978年にA級戦犯が合祀されることになったからです。戦場で命を落とした兵士だけでなく、兵役以外で戦争に駆り出された人々や銃後の市民も、戦争の犠牲者であることに変わりはありません。明らかに「靖国神社」は、戦争の犠牲者を選別しているのです。「靖国神社」を参拝することにわだかまりを感じると語った半藤さんの心情がよく分かります。自分も参拝する度、複雑な思いに支配されます。「靖国神社」を存置しつつ、新たに「追悼・平和祈念施設」を建設すれば済む問題でもないと感じています。
本書に登場する8名の兵士や将校は、「英霊」として「靖国神社」で祀られんがために、日本から遠く離れた外地で戦ったわけではありません。棒高飛び選手にしてオリンピアンだった大江季雄少尉は、フィリピンに敵前上陸する矢先、米軍の猛攻を受けて命を落とします。連隊旗手を務めた小尾靖夫少尉は、太平洋戦争中屈指の激戦地・ガタルカナルで撤退戦の渦中に投じられ、かろうじて生還を果たします。太平洋戦争中、亡くなった240万人の兵士の7割は、兵糧が尽きて餓死したと云われています。死地を彷徨うとはどういうことなのか、食べ物や水が尽きた想像を絶する修羅場をどう潜り抜けたのか、小尾少尉がありのままを淡々と語って聞かせます。兵士の大半が、日本から遠く離れた山や名前さえ聞いたこともない島で見捨てられ、無惨な死を迎えたことを忘れてはなりません。そして、今も、無数の遺骨が異国の山野に留まったままなのです。
慶應義塾大学競走部員だった箱根駅伝の覇者・北本正路少尉は、その健脚を生かして、海抜4500mのニューギニア高地・サラワケット山脈横断の先発工作隊を率いて、踏破に挑みます。後世、ラエの包囲網から逃れるためのこの転進作戦は「サラワケット越え」と呼ばれるようになります。朝晩の冷え込み、熱病、食料不足を克服して、後続部隊のために命懸けでルートを開拓し、大自然との過酷な闘いを制しました。飢えと疲労で2200名が山中で亡くなりましたが、駅伝で培った北本少尉の不屈の精神が6000名を超える兵士の山越えを可能にしたのです。本当の戦争の勇者は誰なのか、ニューギニア山中の駅伝ヒーローが教えてくれます。
黒澤明監督作品の常連俳優・加東大介さんが、戦時中、西部ニューギニアで加藤徳之助軍曹として、特殊な任務に励んでいたことが紹介されています。題して、<南の島に雪を降らせた男>。日増しに荒んでいく兵士らを慰藉し、苛立った気持ちを和らげようと考えた軍上層部が加藤軍曹に命じたのは、演芸班の結成です。終戦が7か月後に迫った昭和20年1月のことです。陸軍部隊の内実は世間の縮図ですから、あらゆる職業の人たちが揃っていました。丸5ヵ月かけて出来上がったのが、客席200人収容の「マノクワリ劇場」です。夢や希望の断たれた極限状態の戦地で、戦友に生きる張り合いを与えた加藤軍曹の役者魂は本物です。笑いや涙こそが生きている証なのです。この部隊の幹部は立派な軍人だと思いました。勇猛果敢な働きだけが軍人の務めではないと知っていたからです。
三度、特攻機の故障で舞い戻って来た知覧の特攻隊員・川崎少尉は、その都度、塗炭の苦しみを味わいながら、過酷な運命を引き受けます。これまで紹介してきた将校や下士官らに混じって、名将・今村均大将が取り上げられています。大本営で無謀な作戦指揮に当たった似非軍人と違って、ジャワ派遣軍司令官を務めた今村大将は、敵国が認める数少ない真の将官でした。一旦、帰国しながら、自ら進んで部下と共に国外で刑に服したいと申し出た態度は、立派を通り越して崇高と讃えるしかありません。
本書のタイトルになった「緑の隊長」こと吉松喜三大佐は、戦争中、根こそぎ敵地を灰燼と化すことに異を唱え、<戦地緑化作戦>と呼ばれる植樹に精を出しました。終戦後、抑留された中国では、植樹隊を仰せつかるほど、敵国からも賞賛される将校でした。帰国後、「靖国神社」の一角で樹々の実から苗木を育て、戦没者の遺族に届ける活動を始めます。遺骨を受け取れない遺族にとって、吉松大佐が「靖国神社」で大切に育てた銀杏や桜の苗木は、英霊が転生した姿に見えたことでしょう。
国民ひとりひとりが懸命に戦った太平洋戦争の本当の姿を知る上で、本書ほどふさわしいものはありません。本書は、生前、歴史探偵を自任した半藤一利さんが永久の平和を願って世に送り出した渾身の作品です。