先々週の三連休は、NHK連続テレビ小説「スカーレット」の舞台信楽を訪ね、琵琶湖大橋を渡り、琵琶湖西畔から敦賀へ足を延ばしました。新型コロナウイルスの拡散でどこも閑散かと思いきや、行く先々は子供連れの観光客で賑わい普段と変わらぬ光景でした。今週末の首都圏は、各自治体から<不要不急>の外出自粛要請が出ていますので、観光地の人出は激減かも知れません。
遥か昔、日本三大松原のひとつ、「気比の松原」へ行った微かな記憶だけがあるものの、それ以外の敦賀港周辺の観光スポットの記憶は欠落しています。写真は今回撮影した「気比の松原」です。全長は1.5km、幅は400mとさほど広くはないので気軽に散策できます。
敦賀港の史料館として2008年に開館した「人道の港 敦賀ムゼウム」を真先に見学するつもりでしたが、この日はコロナウイルス対策で閉館中。そこから徒歩圏の旧・敦賀駅舎(写真下)は開館中だったので救われましたが、残念な気持ちに変わりはありません。かつて、東京発(敦賀港・シベリア鉄道経由)パリ行きの鉄道切符が購入できた時代があったことをボンヤリと思い出しました。たった1枚の鉄道切符で欧州主要都市へ行けた1930年代は、間違いなくシベリア鉄道の黄金期でした。
リトアニア・カウナス領事館を新設し、閉鎖するまでのわずか1年という短い期間に、外交官杉原千畝が発給した「命のビザ」(キュラソー行き日本通過ビザなど)は数千通とも言われます。1940年10月、敦賀港に到着した難民は300名余、6割はポーランド系だったそうです。まだドイツと同盟関係にあったソ連軍がバルト三国を占領、各国の領事館は次々と閉鎖を余儀なくされ、迫害から逃れるためには難民らは極東経由、第三国へ向かうしかありませんでした。日本領事館の前はほどなくビザを求める難民で溢れ返ります。
2015年12月に公開された映画「杉原千畝 SUGIHARACHIUNE」で、外交官杉原千畝(唐沢寿明主演)の名を初めて知った人も多いことでしょう。当時は手書きのビザ発給ですから、相当に骨の折れる作業だったはずです。千畝の片腕ペシュを演じたボリス・シュッツも好演でした。
最終目的地が決まっていて、十分な旅費の裏付けがなければ、本来ビザは発給されません。本省の意向に背き、家族を危険に晒してまで、人道的見地に立って「命のビザ」を離任する直前まで発給した杉原千畝の勇気と行動力には心底敬服します。戦後、外務省からは職を追われ、不遇な晩年を送った杉原千畝。1985年にイスラエル政府が「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を授賞しますが、母国で名誉が回復されるまで、それから15年後待たねばなりませんでした。名誉回復が実現したのは2000年10月10日のこと、当時の外務大臣は河野洋平でした。命を存えた難民たちに新しい家族が生まれ、杉原千畝は数万人の命を救ったことになります。音読みで「Senpo」と自称しユダヤ人から敬愛された不世出の外交官、杉原千畝を日本人として心から誇りに思います。
敦賀港と杉原千畝の名前を心に刻んでこの日は現地を後にしました。また機会を見つけて、「人道の港 敦賀ムゼウム」と共に、リトアニア・カウナスに現存する旧領事館を利用して開設された「杉原千畝記念館」を是非訪れてみたいものです。