生誕百年ユージン・スミス展@東京都写真美術館 + 講演会


第二次世界大戦末期、カメラマンとして激戦の沖縄に従軍していたユージン・スミスは、命こそ取り止めめたものの、日本軍の追撃砲弾で重傷を負い、1年あまりカメラを構えることができませんでした。ユージン・スミスの代表作のひとつ、"The Walk to Paradise Garden"(邦題:「楽園への歩み」)は、まだ左指に麻痺が残り傷口さえ塞がらない1946年春、自身の二人の幼な子を被写体として誕生しました。お嬢さんは2歳だったといいます。凄惨な沖縄戦を捉えた写真とは対照的に、木漏れ日の先には希望に溢れた世界が拡がっているように見えます。見る者は、一瞬の光芒を見逃すまいと職業写真家が発する緊張感よりも、父親の慈愛に満ちた柔和な視線の方に引き寄せられます。

「楽園への歩み」のポスターを額装して自宅で飾っているのですが、ヴィンテージプリントを見るのはこれが初めて。想像していたよりも小さなサイズで図録を確認すると37.3 X 30.4でした。巨匠アンセル・アダムスは、ネガを楽譜に、プリントを演奏に喩えたそうですが、父親として写真家として、ユージン・スミスがこのサイズの写真に万感の思いを託したのかと考えると込み上げてくるものがありました。

「フォト・エッセイ」と呼ばれる連作手法で、市井の人々の暮らしを綴った「カントリードクター」、「助産師モード」、「慈悲の人シュヴァイツァー」を見ると、何気ない日常の一齣をさりげなく切り取って一枚の絵にしてしまう天賦の才能を誰しも確信するでしょう。おまけに、被写体を自然に和ませてしまう天性の資質をユージン・スミスは持ち合わせていたに違いありません。

シリーズ「水俣病」(1971-1973)の展示写真のなかに、水俣病という公害を世界を知らしめた「入浴する智子と母」が含まれていませんでした。12月3日午後、「ユージン・スミスを語る」と題する講演会で、アイリーン・美緒子・スミス(写真集『水俣』の共著者で元妻女)が、その理由を詳らかにしてくれました。1956年に生まれた上村智子さんは母体のなかで蓄積された有機水銀によって胎児性水俣病を発症し、有効な治療法が見つからないまま、1977年に21歳の若さで病没されています。長い水俣病訴訟の過程で、象徴的な母子の写真は、大量の印刷物となって頒布され、恰も広告塔のような存在でした。ビラに印刷された写真はときには路上で踏みつけられたりすることもあったようです。そんな情況下で「もう智子を休ませてあげたい」と智子さんの家族から申し出があって、以降印刷物への発表をさし控えることをアイリーンさんが了承し、事実上、著作権を上村さんに返上することになったのだそうです。発表を差し控えることも著作権の行使の一態様だというアイリーンさんの言葉は心に響きました。すでに美術館に存在するオリジナルプリントや写真集に掲載されている写真まで封印することは不可能ですが、ご遺族の気持ちを汲み取って、敢えて代表作を展示から外したのは英断だと思います。

これまでユージン・スミスの作品の全容に迫った展覧会は、2008年以来(@京都国立近代美術館)だそうです。作品展を見た後、第一線で活躍するジャーナリストであるユージン・スミスの末子ケヴィン・ユージン・スミス氏の肉声を聴けたことも僥倖でした。有名を馳せた世界的写真家ユージン・スミスが、沖縄戦で負傷した後に数々の名作を仕上げ、最後に水俣にたどり着いたことに日本との不思議な縁を感じない訳にいきません。講演終了後、演者3人から図録にサインを頂戴できるとは望外の悦びでした。