ピアニスト・辻井伸行さん|圧巻のアンコールはカプースチン《8つの演奏会用エチュード》から

数日前、初めてピアニスト辻井伸行さん(正式には1点しんにょうです)の生演奏を聴く機会がありました。会場はサントリーホール・大ホール。辻井さんは、2009年6月にアメリカの国民的ピアニスト・ヴァン・クライバーンの名を冠したヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにおいて、日本人として初優勝を飾っています。当時の辻井さんは20歳。その栄冠と共に世間を驚かせたのは、生まれつき辻井さんの目が不自由だったことです。

演奏会の演目は、前半がピアノソロ(ベートーヴェンピアノソナタ第14番《月光》とリストの2曲)、後半が東京交響楽団との共演でショパンの《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ》にラヴェルの《ピアノ協奏曲ト長調》でした。介助者に伴われて登壇した辻井さんは、その存在を確かめるようにグランドピアノの袖に左手を添えてから徐に着席します。手慣れた様子で鍵盤に触れて位置関係を確かめると、すぐに演奏し始めました。豊かな表現力が要求されるベートーヴェンの《月光》は、難曲として知られ、陰鬱な第1楽章から第二楽章の癒されるようなメロディを経て、感情が爆発するかのようなスピード感溢れる第三楽章へと展開します。辻井さんは緩急自在の演奏で聴衆を唸らせました。後半は、マエストロ秋山和慶さんとの呼吸もぴったりで、管楽器やハープが主役のパートでは抑制の効いたピアノ演奏で見事なハーモニーを表現してくれました。

辻井さんは、楽譜が読めないというハンディキャップをどのように克服していったのでしょうか。母・いつ子さんによれば、8ヵ月頃、すでにショパンの《英雄ポロネーズ》の演奏者の違いをCDで聴き分けることができたと云います。1歳5ヵ月目からピアノレッスンを始めたそうです。お母さまやピアノの先生の愛情あふれる指導の下、辻井さんの天賦の才が開花していったのでしょう。それにしても、点字の楽譜に頼らず、聴くだけで難易度の高い演奏曲を暗譜してしまう辻井さんの才能には畏れ入るばかりです。健常者なら弾く前に楽譜を見てどんな曲か読み解いていく(アナリーゼ)ことができますが、辻井さんは指導者の演奏やCDを聴きながら脳内で曲想をイメージし楽譜を再現しているに違いありません。

ベートーヴェンは31歳のとき、弟ふたりに宛てた「ハイリゲンシュタットの遺書」を認めています。ウィーン郊外の保養地ハイリゲンシュタットで日増しに悪化する難聴と向き合っていたとき、書かれたものです。遺書と呼ばれていますが、内実は音楽のために生きる決意を顕わにしたものです。その後のベートーヴェンは後世に残る数多くのシンフォニーやコンチェルトを書き上げています。ピアニストのフジコ・ヘミングも16歳の頃、右耳の聴力を喪っています。目が見えない苦しみ同様、自分の演奏した音を聴けない不自由も察するに余りあります。そうした艱難辛苦に直面した彼らにとって、音楽こそが希望の灯であり道しるべだったのです。

圧巻はアンコールのカプースチン作曲《8つの演奏会用エチュード》(作品40)の前奏曲。ジャズとクラシックを巧みに融合させたプレリュードを力強くリズミカルに、そして心から楽しそうに弾く辻井さんの姿が最高に格好良かった。