『名所江戸百景』2枚に描かれた「月の松」

先週、トーハクを訪れた帰り道、清水観音堂前(地図の赤三角の印)の「月の松」にソメイヨシノを加えた構図の写真を撮りました。博物館や美術館が密集する上野恩賜公園には数え切れないくらい足を運んできましたが、大混雑するお花見シーズンを無意識のうちに避けてきたせいでしょうか、上野の桜の記憶はすっぽりと抜け落ちています。ソメイヨシノの寿命は60年と言われます。久しぶりにさくら通りを歩いてみると、樹勢の衰えたソメイヨシノが目立ち花付きも悪いため、千鳥ヶ淵をはじめ都内にある桜の名所と比べるとかなり見劣りします。

「月の松」を挟むようにソメイヨシノが咲いているのに初めて気づきました。この日は、生憎の花曇りでどんよりとした空が拡がり、残念ながら狙った写真になりませんでした。この「月の松」、歌川広重(1797-1858)が最晩年に手掛けた『名所江戸百景』(全118枚)に2度も登場しています。ひとつは「上野清水堂不忍ノ池」、堂宇は京都の清水寺を模して造営されたのでその名があります。上野清水の舞台を満開の桜が取り囲んでいます。もう1枚は画面の中心に大きく「月の松」を配置した「上野山内月のまつ」です。「上野清水堂不忍ノ池」をクローズアップさせた構図です。右下は中島弁財天、町並みを丸くなった枝で切り取るあたりが奇抜な発想です。『名所江戸百景』にはこのような大胆な構図の絵柄が幾つもあります。

現在の「月の松」は2012年に復元されたものです。明治初期に台風被害を被り永らく失われていた松を、3年掛かりで現代植木職人匠の技が甦らせたそうです。「月の松」越しに見える景色を楽しむ、これも江戸の粋なのでしょう。

東京暮らしが長くなって、子どもの頃から慣れ親しんできた歌川広重の代表作『東海道五拾三次』より、幕末・安政年間に描かれた『名所江戸百景』に惹かれるようになりました。ゴッホはシリーズのなかでも人気の高い「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋敷」(写真上:ゴッホ美術館所蔵のゴッホ作「梅の花」)を模写しています。斬新な構図や高度な摺り技法を駆使した完成度の高さを考えると、歌川広重の最高傑作は『名所江戸百景』一択ではないでしょうか。