東工大|リベラルアーツ教育の正体

首都圏理系の牙城のひとつ、東京工業大学(以下:東工大)が文系教養教育に力を入れていることをご存じでしょうか。東工大の高校生・受験生向けサイトを覗くと、メディア露出度No1の池上彰特命教授が文系教養科目の授業の魅力を力説しています。その昔、大学は前半2年が教養部、後半2年が専門学部とされ、教養部で語学や一般教養科目を受け持つ教員は心なしか肩身の狭い存在に映りました。いつの頃からか、一般教養が<リベラルアーツ>と呼ばれるようになり、学部教育に伍す地位に格上げされたかのような印象さえ受けます。池上特命教授は東工大リベラルアーツセンター教授を歴任されており、「文理問わず教養教育が重要」だと主張されているようですが、ポジション・トークのきらいを否めません。テレビで芸能人相手にニュースを解説する池上特命教授の姿は、どう見ても、アカデミックな学問と無縁に思えてなりません。人寄せパンダの典型で、ネット検索すれば誰でも知りうる情報を得々と語る光景は滑稽ですらあります。つくづく、低劣なクイズ番組と同じではないかと思うのです。

リベラルアーツ>と聞くと本能的に胡散臭さを感じてしまうのは何故でしょうか。今週末、東工大|未来の人類研究センター(英文名称:Future of Humanity Research Center)が企画する「利他学会議」の4つの分科会をウェブ聴講するつもりですが、「利他」が生まれる場をめぐってゲストを交えたトークが行われるようです。未来の人類研究センターに所属する教員はよく言えば多士済々、しかし、その成果物は複数人が食材を持ち寄って拵える闇鍋の如しです。昨年、未来の人類研究センターの主要メンバー5人が著した『「利他」とは何か』(集英社新書)が刊行され話題になりましたが、それぞれの筆者の主張に共通項はあれど、統一的な視点を抽出することは難しいというのが読後感でした。新書の帯には<コロナ時代ー。他者と共に生きる術とは?>とあります。センター長の伊藤亜紗教授は、センターをさまざまな知が出会う場と捉え、ひとつの正解ではなく多様な知恵に触れる機会を提供したいと考えているようです。

リベラルアーツ>とは生きるために必要な総合的な知識や知恵のことですから、暮らしのなかで人は老いも若きも日々獲得しているものなのです。コロナ禍において、「利他」を考えること自体は有意義なことです。しかし、「利他学」と称した時点で平凡な暮らしからかけ離れていくように思うのです。<リベラルアーツ>は大学でことさら取り上げるような高尚な学問などではなく、文字通り平凡な暮らしのなかにこそ息づくもので、むしろ日陰者でいいではありませんか。若松英輔中島岳志のような論客が東工大の<リベラルアーツ>教育を多としているのか甚だ疑問に思っています。

最近、東工大職員の知人(私大文学部出身)からこんな話を聞きました。どんな文脈だったのか不明ですが、宴席で知人に向かって東工大の情報系教授から放たれた痛烈なひと言は「私立文系に存在意義などない」でした。そこには知人も含め私大文系出身者が少なからずいたはずです。明らかなハラスメントであるには違いないのですが、<リベラルアーツ>に対する理系教授の本音が透けて見えるようです。もっと高校や教養課程でしっかり数学や物理の基礎を教えてくれと言いたかったのかも知れません。文科省が国立大学人文社会系学部不要論に傾くのも無理はありません。勿論、知識や知恵は大切です。最高学府たる大学が<リベラルアーツ>に重きを置くのは、本来中・高で身に着けるべき思考力(特に論理的思考力)や読解力が多くの学生に欠落しているからなのです。昔から、私立文系は3科目入試、しかも国語以外は暗記科目(入試英語は暗記科目だと思っています)。近年はAO入試や推薦入試が主流で、国公立大学の5教科7科目入試などコスパが悪いと忌避される始末です。<リベラルアーツ>教育全盛の背景にあるのは、大学入学のハードルが年々下がり、平均的大学生の知力が低下する一方だという厳然たる事実です。もはや、私立大学の淘汰と国立大学再編は避けては通れない道程なのです。