余韻嫋嫋の秀作映画『ドライブ・マイ・カー』

一昨日夜、日比谷シャンテシネマで『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞。ネット予約したときは空席だらけでしたが、たまたまアカデミー賞作品賞(+3部門)に邦画として初めてノミネートされたことが伝わった日と重なり、蓋を開ければ満席に近い入りでした。

カンヌで四冠、米アカデミー賞の前哨戦ゴールデングローブ賞受賞と戴冠報道が重なりネット情報が溢れるなか、予断を排すべく、あらすじに関わる一切の情報を遮断して劇場に向かいました。原作は村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」。手元にある同作品を所収した『女のいない男たち』(2014年)は再読しておきました。ポスターに映った赤いサーブは原作では黄色の900コンバーティブル。40頁足らずの短編がどうすれば上映時間3時間近くに膨らませられるのか?観る前はそんな他愛もないことばかり考えていました。

主人公は西嶋秀俊演じる家福悠介。職業は舞台俳優。美しい顔立ちの妻の名は音(霧島れいか)、4歳の娘を喪ったことがきっかけで女優を辞めて脚本家に転じます。愛娘の死がふたりの人生に大きな影を落とし、やがて、家福は妻が仕事で知り合った複数の男性と関係を結んでいることに気づきます。家福は相性のいい妻を失うことを怖れ、日常に綻びが生じないように気づかぬフリをし続けます。家福の日課は、移動中のクルマの中で妻が吹き込んだテープを聴きながらセリフを諳んじることです。テープから流れる妻の言葉にも、それに呼応して家福が語る言葉にも一切の感情移入がありません。車内に響くエンジン音と淡々としたセリフ廻しはさながらこの映画の通奏低音と化しています。相談事があると妻に告げられたある日、家福は深夜に帰宅し倒れている妻を発見します。クモ膜下出血でした。突然訪れた別離は、妻との会話を先延ばしたためだと家福は例えようのない自責の念に苛まれます。物分かりのいい亭主を演じ続けてしまったことへの悔恨が家福を苦しめます。

妻の死から2年が経ち映画の舞台は広島へ。家福は演出家として地元映画祭に招聘され、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』(原作表記は『ヴァーニャ伯父』)の舞台化に挑みます。原作にはないストーリーです。内外から舞台俳優を募ってオーディションを行い、来る日も来る日も単調な脚本読みが続きます。事務局が用意した若い女性ドライバー渡利みさき(三浦透子)のハンドル捌きに感心した家福は、運転席をみさきに明け渡します。中国語や韓国語が入り乱れ、手話も介在した舞台稽古が進みます。家福がワーニャ役に抜擢した高槻(岡田将生)こそ妻の不倫相手のひとりでした。突然他界した妻の隠された真実を知ろうと家福は高槻とバーでスコッチを傾けます。やがて、高槻は家福の真意を悟り、家福が生前妻から聞きそびれた物語(原作本所収「シェエラザード」に詳しい)の顛末を語ります。

ずっと後部座席に座っていた家福は、高槻との訣別を機に、助手席へ移動します。どこまでいっても高槻とは交われなかった家福が、次第にレンタルドライバーみさきと精神的な距離を縮めていきます。ふたりがサンルーフを開けて煙草を空に向かってかざすシーンはその象徴です。みさきも家福と似たような心の傷を抱えていたのです。高槻が傷害致死の容疑で逮捕され、家福はみさきに命じて彼女の故郷北海道上十二滝町へとサーブを走らせます。深夜、殺風景なトンネルを抜けた後、カメラアイは前方ではなく後方の通過したトンネルを執拗に追いかけます。まるで修復の効かない過去を振り返るかえるかのように。

残された家族は亡くなった家族への自責の念を抱えて生きていかなければなりません。逮捕された高槻の代わりに舞台に立つ決心をした家福は、自暴自棄になったワーニャ伯父を見事に演じ切ります。家福は自身の心の葛藤や苦悩を、セレブリャコーフ教授に長く仕え捨て扶持のような給料で領地を守ってきたワーニャ伯父の苦悩に重ねます。終幕、姪のソーニャがワーニャ伯父に寄り添います。

原作本所収の3つの短編小説に散りばめられたピースを拾い集め、「ワーニャ伯父さん」を軸に新たな物語を紡いだ濱口竜介監督の手腕に脱帽です。第92回アカデミー賞作品賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』のような劇的な展開こそありませんが、本作は深い味わいのある作品に仕上がっています。久しぶりに余韻嫋嫋の映画に巡り会えました。