「生誕110年香月泰男展」|神奈川県立近代美術館・葉山館(後篇)~2021年マイベスト1展覧会~

後篇では企画展「生誕110年香月泰男展」(会期:9/18~11/14)について詳しく触れたいと思います。7月に都美で見た特別展「イサム・ノグチ発見の道」も記憶に残る展覧会でしたが、葉山館の器としての魅力を加味すると、2021年マイベスト1展覧会は、香月泰男の代表作<シベリア・シリーズ>全57点が一堂に会した「生誕110年香月泰男展」に決定です。来年2月、練馬区立美術館を巡回しますので、もう一度じっくり見るつもりです。さりながら、「生誕110年香月泰男展」を一度だけ見るとするならば、億劫でも葉山館へ足を延ばす価値大だと申し上げておきます。

香月泰男の油彩に惹かれるようになったのがいつからなのか、杳として知れません。香月研究の決定版と言われる立花隆著『シベリア鎮魂歌-香月泰男』(文藝春秋刊)が出版されたのは、2004年8月(第一部に立花氏が本人に取材・代筆した「私のシベリヤ」所収)。同書を出版直後に購読しているので、それ以前から関心があったことは間違いありません。10年前、山口県立美術館で開催された「生誕100年香月泰男 追憶のシベリア」展の紹介記事が手元に残っていますが、遠方開催だったために見に行けず歯軋りした記憶があります。

画家・香月泰男を知る人は、令和の今、少数派ではないでしょうか。氏は1911年山口県大津郡三隅村に生まれ、東京美術学校卒業後、美術教諭として働き始めますが、1943年に応召され旧満州ハイラル地区(第十九野戦貨物廠営繕係)へ配属されます。戦争を無事生き抜いて輸送列車のなかで終戦の報せを耳にします。香月さんの所属する部隊は奉天で再編され、シベリア送りが決まります。日本に帰れるのであれば汽車は南へ下るはずです。かすかな望みは無常にも打ち砕かれ、汽車は長い時間をかけて北上し、やがてシベリアへと向かいます。香月さんがセーヤ収容所に収容されたのは終戦から2か月以上を経た11月30日のことでした。

先の『シベリア鎮魂歌』は、<シベリア・シリーズ>57点をモチーフの所在地別に次のように分類してみせます。

★日本(召集・出征)3点 満州ハイラル時代)11点 満州(敗戦以後)8点
★シベリア(アムール・収容所)21点(収容所まで3点・セーヤ収容所10点・チェルノゴルスク収容所8点)
★シベリヤ(ダモイ・ナホトカ)10点
★日本(全体回顧)4点

会場で初めて目にした<シベリア・シリーズ>全57点の圧倒的な存在感は、言葉では到底言い尽くせません。立花隆が言うように「実物を見ないうちは、本当の意味でシベリア・シリーズを見たことにはならない」のだと思い知りました。図版から想像していたよりも遥かに重厚な黄土色と黒を基調とするマチエールが、極寒の大地における色彩の喪失感を際立たせます。作者はこう語りかけます。

<記憶につながる制作だから/夢の中の色と同じで/あまり多くの色を使えば/ウソになる/私の思いをジカに人々に訴えたい>

異例なことに、<シベリア・シリーズ>の一点一点に自筆解説文が付されています。見る者がどれほど想像力を逞しくしても、一枚の絵に託された作者の魂の叫びに等しいメッセージを読み解くことは容易ではありません。過酷なシベリア抑留体験の実相を伝えたいという作者の切実な願いは、絵と自筆解説文が不即不離の関係になって結実したといえます。

一番魂を揺さぶられた絵は、零下35℃の屋外で貨物列車から荷卸しをする様子を描いた≪-35°≫(図録no.100)。縦長の画面中央を斜めに横切る貨物列車からさながら蟻のように収容者たちが四方に散らばっていく構図で、手前に描かれた有刺鉄線が閉塞空間であることを強く印象づけています。自筆解説文には<前略・・・車卸し作業は相手が鉄製のものばかりだから非情である。大体この寒さの中で、手袋なしに金属にさわろうものなら、皮膚がはりついてしまい、無理にはなそうとすると、皮膚がはなれてしまうのだ。>

ロシア語で帰郷を意味する「ダモイ(домой)」をソ連兵が口にする度に、シベリヤ抑留者は誰しも内心穏やかではいられなかったといわれます。そしてその期待は繰り返し裏切られます。≪ダモイ≫(図録no.54)の自筆解説文には<スコラーダモイ(帰国はちかいぞ)、この言葉を何度聞かされたことだろう。その度に私たちは飛び上がって喜んだ>とあります。≪ダモイ≫は待ちに待ったダモイの通知が届き、所持品検査を待っている作者自身を描いたものです。そこには、シリーズに共通して描かれる不安と恐怖に慄く顔があります。1947年5月、舞鶴港に戻るまで安堵の気持ちは封印されたままだったのでしょう。