「不要不急」論への日増しに募る違和感と不快感

12月18日、フジテレビの恒例ドキュメンタリー「中村屋ファミリー2020待ってました!勘九郎 七之助 試練と喝采の幕開けSP」で勘九郎さんが明治座の3月花形公演がすべて中止と決まったとき、こう呟いたのが印象的でした。

<エンターテイメントはいらない、というわけではないけど、いらないに近いんだなあ、、腐りましたよ。>

小池都知事をはじめ自治体首長がメディアに向かって連呼する「不要不急」という言葉に言いようのない不快感を感じてしまう私は少数派なのでしょうか。年が切り替わろうするこの歳末、その違和感は日増しに募るばかりです。

12/26付け朝日新聞朝刊の<異論のススメ>に寄稿された佐伯啓思京大名誉教授も新型コロナ騒動で様々な言葉が飛び交うなか、気になったのは「不要不急」の4文字だったといいます。以下、少し長くなりますが、腑に落ちた箇所を引用します。

<いうまでもなく「不要不急」の反対は「必要火急」である。「必要火急」は、それがなければ人間の生存が脅かされる絶対的必要だとすれば、「不要不急」は生命の維持には直接に関わらない。「生命の維持」からすれば、それは無駄なもの、過剰なものであろう。ところが、この無駄を止めた途端に、「必要火急」が切迫し、「生命維持」さえも危機に陥ることになった。となれば、現代社会において、われわれの生命や生存は「不要不急」なもの、無駄なもの、過剰なものによって支えられていることになる。>

佐伯氏はこう続けます。

<人はただ生存のためだけに生きるものではない。古代ローマ人は「パンとサーカス」といった。この社会には「パン」のみならず「サーカス」も必要なのである。>

「サーカス」は、文化を象徴する概念に他なりません。スポーツ全般、舞台芸術全般、コンサート、様々なアートの展覧会等々、人それぞれ価値観こそ異なれども、こうしたエンタテイメント抜きで豊かな人生を生きることはできないのです。勘九郎さんのような看板役者さえ「要らない人(芸)」だと追い詰めてしまう「不要不急」という4文字はそろそろ封印する時期ではないでしょうか。もうウンザリなのです。今や、陳腐な決まり文句"Cliché"に堕したといって差し支えないでしょう。2020年は、多くの人々がこの"Cliché"に洗脳されて、命とともに大切な生存に不可欠な車輪を奪われた1年だったと総括せざるを得ないのです。