熾烈を極めた「ガダルカナル島の戦い」に勝機があったとは!?〜敗因は大本営の兵站軽視にあり〜

毎年、終戦記念日が近づくと、太平洋戦争をテーマにNHKが実に見応えのある番組を放送してくれます。戦後75年も経てば、常識的には史実の検証は困難になる一方にもかかわらず、驚くべき第一級の資料がしばしば発掘されることに驚かされます。

アメリカ国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration,、略称NARA)の機密指定を外れ解禁となった太平洋戦争や沖縄統治に関連する書類をNHKは丹念に調査・収集しているに違いありません。Wikiにはこうあります

日本国立公文書館との大きな違いの一つは、機密指定をはずされたものは、大まかに処理されて中性紙製の箱に入った未整理状態でも一般人に閲覧許可される点である。膨大な未整理書類は、限られた時間でNARAを利用する日本人研究者にとっては研究を阻む要因ともなっており、日本関連文書を探してリスト・アップするだけでも大仕事である。

NHKがこの時期に放送する戦争番組は大変な労作だということです。

NHK歴史秘話ヒストリアガダルカナル 大敗北の真相」(2020/8/12放送)も、アメリカで見つかったという幻の戦闘記録を元に、太平洋戦争の転換点となった「ガダルカナルの戦い」を丁寧に検証した内容で、驚きの連続でした。

第一次ソロモン海戦で勝利した海軍が、真珠湾攻撃同様、主力艦船こそ沈めたものの輸送船への攻撃を見送ったため、陸軍は泥沼の消耗戦に引き摺り込まれていきます。最初に置き去りにされたのは兵員1万余の米海兵隊でした。精鋭部隊で知られる一木支隊先遣隊(916名)は奇襲をかけるも全滅。大本営の兵力の誤算が敗因でした。次いで派遣された夜戦の得意な川口少将率いる川口支隊(約6000名)には、十分な勝機があったと当時の米軍幹部は振り返ります。ドローンを飛ばしてみると、川口支隊の攻略作戦はムカデ丘(「血染めの丘」)の地形を知悉したものだったことがよく分かります。ヘンダーソン飛行場(現在のホニアラ国際空港)奪還に迫りながら、川口支隊も圧倒的な米軍の火力に屈してしまいます。

ガダルカナルソロモン諸島最大の島で東京から5500kmを離れたオーストラリア北東に位置します。十分な補給がないと戦えないと主張した現地参謀長二見少将は悲観的だと批判され更迭されてしまいます。ガダルカナル奪還はそもそも海軍が言い出したこと。ところが、敗色が濃厚になると弾薬や食糧の補給に不可欠な輸送船の派遣を渋ります。結果、2万余の将兵が補給を絶たれ、島を彷徨うことになるのです。南の海岸線に島民が植えた椰子の実はあっという間に食べ尽くされ、決死のサバイバルが繰り広げられます。

命運を分けたのは、兵站(ロジスティックス)に対する根本的な考え方の相違でした。制空権を確保した上で物資の補給と兵員の輸送に万全を期す米軍に対して、大本営は兵力の逐次投入の愚を犯すだけではなく生命線である十分な補給を怠り大敗北を喫したのでした。補給に成功していたならば、米軍が指摘するように、果敢に戦った日本軍にも十分な勝機があったのかも知れません。

1942年8月上旬から始まった「ガダルカナル島の戦い」は、その年の大晦日まで続き、多くの将兵が飢餓で命を失いました。日本軍の死者は陸軍20800名、海軍3800名の計24600名。対して米軍の戦死者は約1600名。打開策を見いだせない大本営陸海軍部が1942年末まで撤退を先送りした結果、飢え、病気、マラリアに苛まれた将兵が生き延びる可能性は先細るばかりでした。ガダルカナルが餓島と呼ばれたのも無理からぬことです。

奇跡的に生還を果たした小尾靖夫陸軍少尉(当時22歳)は、陣中日誌『人間の限界』のなかでこう記しています。

〈立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日〉

あまりにも無惨な敗北に終わった「ガダルカナル島の戦い」が、華々しい奇襲に始まった開戦からわずか8か月しか経っていないことに、あらためて愕然とします。空母4隻を喪ったミッドウェー海戦に続き、ガ島の戦いで多数の熟練パイロットを喪ったこと(ラバウルガダルカナル間の距離は560哩=1037キロ)も大きな痛手でした。この時期に戦争継続を断念すべきでした。