リアルな新英国事情~『ワイルドサイドをほっつき歩け』(ブレイディみかこ著・筑摩書房)を読んで~

長きにわたって沁みついた島国根性のせいでしょうか、日系メディアの海外情報発信力は頗る頼りなく、英国に限らず海外に居住する日本人の暮らしぶりは一向に伝わってきません。比較的感染者の少ない日本に比べ、遠い異国の地に暮らす在留邦人は、オリンピックイヤーを突如襲った新型コロナウイルスの世界的蔓延によって、想像を絶するような不便や苦労を味わっているに違いありません。

英国在住歴20年を超えるブレイディみかこさんの一連の著作には、ヴィヴィッドな現地情報が目一杯詰め込まれていて、読み進むにつれぐいぐいと引き込まれていきます。2019年に出版され一躍話題になった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が思春期の息子ケン君を主人公にした作品であるのに対して、『ワイルドサイドをほっつき歩け』(以下、『ワイルド』)は著者が住む町ブライトンの愛すべき住民が主人公です。読者は、英国に住む日本人が「チンク」(東洋人の蔑称)と呼ばれたり、移民であるという厳然たる事実を突きつけられて、内心穏やかではいられなくなるはずです。

ブライトン(Brighton)と聞いてピンとくる方は、間違いなくラグビー好きのはずです!そうです、2015年のラグビーW杯・イングランド大会で日本代表が当時優勝2回、世界ランキング3位の南アフリカを34-32のスコアで撃破した会場がブライトンです。「ブライトンの奇跡」(元日本代表キャプテンの廣瀬俊朗さんは準備の賜物だと言います)は、今でも世界中のラグビーファンの語り草なのです。

ロンドンの南に位置するブライトンは労働者の町でありながら、比較的リベラルな地域だそうです。ブライトンはロンドンに近いどちらかと言えばEU残留派が優勢な地域のはずでした。ところが、2016年の国民投票を蓋を開けてみれば、英国民はあろうことかEU離脱(得票率52%)を選択しました。当時、国民投票を決断したのはキャメロン首相、離脱派として活動していたのが現首相ジョンソン氏です。

『ワイルド』は、EU離脱に一票を投じたおっさんたち(本書では「ハマータウンのおっさんたち」と呼ばれます)の悲哀を優しい眼差しで活写していきます。美容院を複数経営するやり手の妻を持ちブレグジット破局寸前のレイは主夫、大型スーパーで働くスティーヴ、ウーバーに将来を脅かされるブラックキャブの運転手テリー・・・・今や60歳を超える高齢者たちが主人公なのです。アイルランドの移民二世で大型トラックの運転手をしているというみかこさんの旦那もその仲間です。

EU離脱派の勝利が決まって、海外メディアはこぞって「下層に拡がった醜い排外主義の表れ」とネガティブな論調で英国を非難しましたが、国内では「労働者階級の革命」だと評価する声も高かったのだそうです。『ワイルド』を読んで、EU離脱派に同情票を投じたくなりました。というのも、ワーキングクラスにとって生命線ともいえる国民保健サービス(NHS)の崩壊(本書第14章に詳しい)に歯止めが掛かると信じた人々が、EU離脱に賛成票を投じたからです。キャメロン元首相は自伝のなかで、《選挙活動用のラッピングバスに、EUを離脱すればEUに毎週支払っている3億5000万ポンド(約485億円)が国民保健サービス(NHS)に入るという虚偽の情報を載せた》と手厳しい批判を展開しています。筆者は、残留派のリーダーがひと言「緊縮をやめて政府がもっと財政投入します、絶対に改善します」と言い切ってくれていたら、国民投票の結果は違ったはずだと主張します。2010年から始まったという英国の緊縮財政(fiscal austerity )は、NHSへの支出削減にはじまり図書館など公共施設の縮小へと舵を切ります。ブレグジットのせいで英国は混迷を極めているのではなく、もっとずっと前から末端の地べた社会はボロボロだったのだと著者は指摘します。

『ワイルド』の第1章の扉の小さな注意書きに《この章のエッセイには様々な曲が織り込まれていますので、それを聴き、歌詞も調べていただけると楽しさが倍増するでしょう》とあります。みかこさんの文章と各章のメロディは見事なまでにシンクロしています!英国の労働者階級には歴代のパートナーの間に複数の子供がいながら、結局パートナーとも別れ子供と一緒に生活していないおっさんたちが結構な数いるのだそうです。淋しさを紛らすために酒浸りになってゲロを吐き床に倒れる、そんなテレビドラマのシーンとおっさんたちのリアルライフは哀しいほど重なるのです。筆者はザ・フォーク・クルーセダーズの『悲しくてやりきれない』(1968年)を歌いたくなるといいます。そんなおっさんたちの最後の砦パブも今や、激減の一途なのだと。若い世代は旧式のパブライフを不健康なものと看做し、ビール腹のおっさんたちは露骨なファティズム(fatism:太りすぎの人に対する差別)のターゲットにさえなっているようです。

20章のタイトルは《「グラン・トリノ」を聴きながら》。妻に先立たれ、息子さえ寄りつこうとしないひとり暮らしの頑固な老人ウォルト(クリンㇳ・イーストウッド)は「ハマータウンのおっさん」そのものです。映画『グラン・トリノ』(2008年)のエンディングに流れるメロディ、走り去るグラン・トリノ。切なくて涙腺が緩みっぱなしになります。

”your world is nothing more than all the tiny things you've left behind" (あなたの世界は、あなたが残してきたすべてのちっぽけなものに過ぎない♬)

次々と居場所を奪われ歳を重ねていく「ハマータウンのおっさんたち」に、《みんな生きている、友達なんだ》《夏の日はなかなか沈まない。もうそんなに長い時間は残されていないのかもしれないが、まだどうして眩しい光がわたしたちの世界を照らしている。すべての小さなものたちを》とみかこさんはユーモアさえ交えながら優しくエールを送ります。彼らのご近所付き合いという緩やかな連帯こそ生きているという証だったのです。人間関係の極めて希薄な大都市の住人には眩しくてなりません。

ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち

ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち