植村直己さんを偲んで〜エベレスト日本人初登頂から50年〜

松浦輝夫さんと植村直己さんが日本人初となるエベレスト登頂を果たしたのは、1970年5月11日(午前9:10)のことでした。英国隊のエドモンド・ヒラリー(登頂後ナイトの勲位を得たのでヒラリー卿)とチベット人シェルパテンジン・ノルゲイによる世界初登頂から17年の歳月が必要だったことになります。爾来、1万人以上がエベレスト登頂を果たしています。1975年に女性初登頂を果たしたのは田部井淳子さん、世界山岳史に輝く偉業を日本人女性が達成したわけです。ちなみに、男性最高年齢記録保持者(当時80歳)はプロスキーヤー三浦雄一郎さん、女性最高年齢記録保持者(当時73歳)も日本人の渡邊玉枝さんです。

最もポピュラーなエベレスト「南東陵ルート」を一帯の天候が一番安定する5月にアタックするのであれば、今日、登山経験豊富なアルピニストにとってハードルの高い登山ではないそうです。寧ろ、危険なのはこの時期に登山客が集中することで発生する高所渋滞です。1996年5月、12人の死亡者を出した大量遭難事故は記憶に新しいところです。

ヒラリー卿とテンジンはどちらが先に頂きに到達したか明らかにしていませんが、植村直己は、先輩の松浦さんに初登頂の栄誉を譲ったのだそうです。当時は、極地法と呼ばれる大掛かりなチーム編成を伴う登山が主流。高額な入山料・渡航費用の調達に加え、2か月に及ぶ遠征に必要な大量物資は、総勢1千人規模のポーターを雇って荷揚げしたのです。田部井淳子さんが存命中、ラジオで酸素ボンベが重たくてという話をなさっていたことを思い出します。当時の装備はアウターレイヤーひとつとっても、今のような軽くて耐寒耐風性に優れた素材はなかったはず。植村直己さんが「みんなのお陰で登れた」と語ったのも無理からぬことです。この50年の山岳ギアの進化を考えれば、当時の8000m級登山は、異次元の過酷さと表裏一体だったのです。

エベレスト初登頂後の植村直己さんの冒険家としての真骨頂は、単独行にあります。敬愛したのは加藤文太郎(新田次郎著『孤高の人』に詳しい)、故郷の先輩登山家でした。1978年には、植村直己は犬橇単独行で北極点に到達しています。この偉業達成で氏はナショジオの表紙(1978年9月号)を飾った最初の日本人になりました。全28頁に及んだ記事タイトルは”Solo to the Pole”、ソロは断然クールです。

走行距離はカナダ最北点から約800km。驚くべきは、犬ぞり行に先立つ約5か月間、単身、グリーンランドエスキモーと共同生活し、衣食住や狩り・釣り・犬ぞりの技術に至るまで、極地に暮らす人々から直に学ぶことに徹したことです。桁違いのスケールの冒険の蔭に、綿密かつ周到な準備がなされていたのです。準備に時間を惜しまなかったのは、人一倍不安に苛まれる性分だったからです。

こんな言葉を残しています。<私は人一倍こわがり屋である。不安がそうさせるのか>

フォークランド紛争の煽りで、3000km犬橇単独行による南極点踏破の夢は儚く潰え、1984年2月12日、世界初となるマッキンリー(現:デナリ)冬期初登頂を果たします。奇しくも43歳のバースディの日でした。ところが翌日の無線連絡を最後に消息を絶ち、その後4200m地点の雪洞で本人の日記やフィルムが発見されましたが、今もなおご遺体の所在は不明のままです。

明治大学在学中、阿佐ヶ谷の八畳間で同級生と同棲していたことに、同じ中央線沿線住まいとして親近感を覚えます。就職をせずにフランスへ渡り、働き先がなかなか見つからないなか、ハッタリでスキー場のアルバイト口を見つけ冒険資金を貯めた微笑ましいエピソードは、若き日の植村直己を象徴しています。

人知れずひたむきに夢を追求する努力に天は味方したのですね。Chance prefers well-prepared mind.という言葉は植村直己のためにあるのかも知れません。

新装版 青春を山に賭けて (文春文庫)

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