さらば!東京国立近代美術館工芸館

左手に英国大使館を見遣りながら、内堀通りを北へ進むと千鳥ヶ淵交差点。右折するとほどなくレンガ造りの工芸館が左手に見えてきます。旧近衛師団司令部庁舎だった建物は重要文化財に指定されていて、存在感抜群です。近衛師団といえば天皇陛下と宮城を守護する最古参にして精鋭部隊、司令部庁舎が辺りを睥睨するかの如き威容となるのも当然です。その建物前を数えきれないくらい通り過ぎながら、これまで一度も入館したことがありませんでした・・・。

いつかは訪れようと思っているうちに、安倍政権の地方創生政策の一環で、今夏、工芸館に金沢に移転しまうことになってしまいました。移転前に開催中の最後の展覧会「パッション20 今見ておきたい工芸の思い」(3月8日まで)に駆け込みました。

思った以上に来場者が多いのに驚きました。明治以前には美術と工芸の間に区別はなかったのだそうです。たまたま訪れた時間にギャラリートークが始まり、スピーカーの主任学芸員今井陽子さんから、西欧の価値観に合わせて「美術」という翻訳語が明治期に誕生したとき、こぼれ落ちたものを掬い上げた概念が「工芸」だった由。何気なく使ってきた「美術」や「工芸」という概念も、明治期の近代化=西欧化の過程における苦し紛れの産物だったというわけです。

会場は2階、中央階段を上ると左右に展示室があります。柱のせいでしょうか、展示スペースは思ったよりも狭く感じられます。工芸品と聞くと、美術品に比べて格下のイメージを想起しがちですが、考えを改めさせられました。シカゴ万博に出展された鈴木長吉作「十二の鷹」(1893年・青銅製)は、翼を休め手すりに掴まった鷹の姿態をさまざまな角度で捉えたもの。同じブースに巨大な「赤い手ぶくろ」(小名木陽一)と題するオブジェが共存しています。工芸のカバーする領域は無限の拡がりを見せてくれます。

一番印象に残ったのは四谷シモンの「解剖学の少年」(1983)でした。渋澤龍彦に見いだされたことでも知られる四谷シモンの少年からは不思議なオーラが伝わってきます。絵画でも彫刻でもない人形は「工芸」に包摂されるのでしょうか。200点余りの作品のかなりの部分、撮影OKでしたので、気になった作品の写真を数点アップしておきます()。

熊倉順吉「JAZZ・VOCAL」

初代宮川香山「鳩桜花図高浮彫花瓶」

黒田辰秋作「赤漆流稜文飾箱」

工芸館が金沢に移転した後の建物はどう利用されるのかに興味があります。1945年8月15日未明に、旧近衛師団司令部庁舎で森赳近衛第一師団長が降伏に反対する若手将校の手で殺害されています。所謂「玉音盤クーデター未遂事件」の舞台でもあった庁舎ですから、戦争遺産として再利用し、後世に「日本のいちばん長い日」を伝えてくれたらと切に願う次第です。