中島敦展(~11/24)@神奈川近代文学館

2019年は中島敦生誕110年。明治42(1909)年生まれの作家といえば、早逝した中島敦(1909-1942)や太宰治に加え、松本清張大岡昇平埴谷雄高錚々たる顔ぶれが頭に浮かびます。生誕から100年以上経つというのに、中島敦の『山月記』や太宰治の『走れメロス』は今日でも教科書に掲載されています。不朽の名作の証しに他なりません。県立神奈川近代文学館を訪ねるのは、この春の特別展「巨星・松本清張」展以来です。

文学展というと地味で往々にして退屈しがちですが、作品からは窺い知れない生い立ちや私生活の片鱗を知ると思わぬ発見があるものです。生後まもなく両親が離婚したため、中島敦は幼少時祖父母の元で育てられました。実父との関係は必ずしも良好ではなかったようです。全集に掲載されている中島敦の写真から勝手に痩身長躯で神経質なイメージを抱いていましたが、身長は159センチ、体重は45kgと意外に小柄なことを知り驚きました。大学院修了後、朝日新聞社の入社試験も身体検査で落第だったようです。足掛け9年に及ぶ横浜高等女学校教諭時代は、謹厳実直な教師でありながら、トン先生(敦の音読みですね)と呼ばれ、女生徒にずいぶん慕われていたそうです。『山月記』の李徴は中島敦自身の投影だという説が有力ですが、横浜高女における等身大の中島敦と引き比べると少なからず違和感を感じてしまいます。

展示のなかでひときわ興味があったのは、国語教科書編修書記としてパラオに単身赴任した中島敦が長男の桓(たけし)君や妻たかへ宛てて書いた絵ハガキの数々でした。以前、買い求めた『中島敦 父から子への南洋だより』(2002年11月集英社刊)に掲載されている絵葉書も多数出展されていて、その心温まる内容にホロリとさせられます。日本から遠く離れた南洋の地の暮らしぶりを、カラフルな絵葉書でこまめに留守宅の家族に伝えていたのですね。お子さんへの手紙には教育的配慮も窺え、書簡文学の白眉と位置づけられるのではないでしょうか。

その一方で、現地の生活に溶け込むうちに、中島敦は島民に日本語を教えることに大いなる疑問を感じるようになります。妻への書簡には「土人(差別語そのまま)の教科書編纂といふ仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある、教科書なんか、末の末、の実にちいさなことだ。」としたためています。南洋群島に派遣されていた大多数の知識人の意識とは明らかに異なった感受性の発露です。現地で親交を深めた彫刻家・民俗学者南洋庁物産陳列所嘱託土方久功(ひじかたひさかつ)もその例外で、島民と交わり同化していきます。彼らが文明人の意識を完全に払拭することはできなかったにせよ、日本の植民地政策や同化政策に違和感を覚えていたことは明らかです。戦時下にあって、自分たちとまったく異なる他者の存在を受容しようとする姿勢は中島敦の類い稀なる資質の表れであり、南洋行が中島文学の結実に大きな影響を与えていたことがよく分かります。