「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」〜明恵上人遺訓から〜


高山寺石水院の壁に「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」と題された掛板が掲げられています。その言葉に続けて、夕方から早朝にかけて修行僧として守るべき行儀作法が事細かに記されています。

新年になって、白洲正子さんの『明恵上人愛蔵版』を読み返していたら、挟んであった3年前の新聞記事にふと目が留まりました。高山寺の住職小川千恵さんのインタビューが掲載されたその切り抜きには、「自分が置かれた立場で、自分らしく、当たり前に生きること」、それが<あるべきようわ>という短い言葉に込められた教えだとありました。

勘違いしてならないのはあるがままに生きるということではない点です。例えば、経典の上に数珠や手袋を置いてはならないという戒めがあります。

一、聖教ノ上ニ数珠手袋等物不可置之

恰も、就学前の子供に対する躾の如しです。けれども、無秩序に並んだかに見える形式的な戒めや規律に従って日々をやり過ごすうちに、次第に僧としてあるべき姿が形を顕わにしてくるのでしょう。白洲さんによれば、明恵上人が生きた時代は末法思想が流布し、苦しい現世を諦めて死後に浄土を求める気持ちが人々のなかで切実になったといいます。明恵上人は決して来世を願わなかったのでなく、現世(日々の暮らし)を疎かにしないことが何より大切だと考えたに違いありません。

<あるべきやうわ>とは、今も色褪せることのない実践的な処世訓ではないかと考えます。学生らしく、社会人らしく、親らしく・・・その本分をわきまえなさいと言い換えることもできます。その細目とは、各々の暮らしのなかで励行すべき一連の所作ではないでしょうか。

美しい所作に内面が投影されるといいます。ときどき<あるべきやうわ>と口に出して、居住まいを正す習慣を身に着けたいものです。

P.S. 写真は明恵上人がそばに置いてかわいがったという木彫りの狗(重文)です。昨年、運慶展で初めてお目にかかりました。

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)