『野村證券 第2事業法人部』で振り返るバブル期の証券営業

著者は、2011年に発覚したオリンパス巨額粉飾事件で粉飾の指南役と名指しされた横尾宣政氏。翌2012年に証取法・金商法違反容疑で逮捕され、1審・2審共に有罪判決を受けて、現在最高裁に上告中です。腰巻には「バブル期の野村證券でいちばん稼いだ男」とあります。その筆者が、プロフェッショナルとしてのキャリアを振り返りつつ、事件の真相究明のために、そして自らの潔白を立証するために綴ったのが本書です。

一証券会社の部署名をタイトルにした本書を購入したのには理由があります。外資系証券在職時、本書に登場する元野村証券マンH氏と出会って、不可解な仕事ぶりに幾度も疑問を感じたことがあったからです。それまで一緒に働いたことのある野村出身者は、例外なく、プレスの利いた上質のスーツに身を包んだ紳士でした。流暢な英語を操り次々とスイスフラン建ての起債をまとめ上げていくようなビジネスエリートと置き換えても構いません。

ところが、H氏の風貌はというと世界の金融市場を股にかけて仕事をする国際派とは対照的な居酒屋の親父風。お若いときは分かりませんが、横尾氏の現顔写真も似たようなものです。80年代から90年代前半当時、外資系証券会社には英語の不得手ないかにも日系証券出身という兵がかなりいました(「純ドメ」と呼ばれていました)。海外では有名な金融ブランドであっても日本の知名度はなきに等しかったからです。野村の第2事業法人部出身だというH氏も即戦力を見込まれてスカウトされたひとりだったのでしょう。揶揄するつもりはありませんが、坊主にポマードを売るくらいでないと外証の営業など務まりません。その頃、別の同僚から「彼(H氏)はノムラの事法だからね」という言葉をよく耳にしました。

そのフレーズを聞いて、当時は漠然と足腰を使った営業を得意とする野村マンをイメージしたものですが、「ノムラの事法」とはそんな生易しい形容とは無縁の恐るべき精鋭部隊だったのです。筆者の言葉を借りれば、「事法」は証券会社にとってメインエンジンなのだそうです。日経平均終値が最高値をつけたのは1989年12月29日、38915.87円でした。それからわずか9カ月で一時2万円割れ、2003年4月28日には算出以来の最安値7607.88円(終値)を記録します。株価をバブルの絶頂から奈落の底に突き落とすような凄まじい暴落を演出したのは他ならぬ四大証券でした。86年から87年にかけて「トリプルメリット」や「ウォーターフロント」のスローガンで株式市場に資金を呼び込み大相場を仕掛けたのが野村證券です。97年に山一證券が自主廃業することになった原因の一端は禁止されていた「保証商い」でした。相場が活況な時は回転商いで法人顧客も個人顧客も喰いものにし、大暴落となれば知らんぷり、証券会社の内幕が次々と詳らかにされていきます。野村の社員は社外では身の安全を守るために社員バッジを外したといいますから、相当な恨みを買っていたのでしょう。

ノルマでがんじがらめの証券会社、なかでも野村證券は「ノルマ証券」とか「ヘトヘト証券」と呼ばれ、自分の記憶でも就職先としては不人気だったように思います。80年代、新入社員の1/3が数年で辞めると云われていました。都銀を蹴って野村證券に入社した筆者の同期は167人、その内69人が1年以内に辞めたそうですから(離職率41.3%)、実態は噂以上だったことが分かります。ある意味、過酷な現場でノルマと戦い職場放棄しなかった筆者の根性と努力に敬服します。

巻半ばからいよいよオリンパス巨額粉飾事件の真相に迫ります。筆者がオリンパスと関わるきっかけとなったのは、1987年10月19日にNY株式市場をパニックに陥れたブラックマンデーでした。それ以前から抱えていた100億円の債券の損失に加え、オリンパスが営業特金で保有してる銘柄に300億円の損失が発生します。決算期末の10日前のことです。筆者は真っ先に売りが出るワラントをロンドン市場で買い集めて、相場の反転に賭けます。嵐が過ぎ去ると、思惑通りワラントの価格が回復し400億円余りの損失が一気に解消します。

著者は二度と財テクには手を出すなとオリンパスの資金担当に厳命して、別の会社の損失処理に向かいました。ところが、財テクから足を洗うことのできないオリンパスはまたしても特金で450億円余りの損失を抱え、くだんのH氏が勤務する証券会社から金利デリバティブを組み込んだ仕組債を購入します。目論見通り、金利が上昇すれば良かったのですが、金利が下がって仕組債にも巨額の損失が発生してまたしてもオリンパスは窮地に立たされます。タックスヘイブンに簿外ファンドを拵えて損失飛ばしを画策、地獄への転落が始まります。H氏がオリンパスと接近するきっかけは、野村時代にオリンパスから派遣された短期トレーニーをH氏が指導したことに遡ります。振り返れば、H氏が持ち込んだ案件には胡散臭い点が散見されました。H氏の担当顧客から、流動性の乏しい劣後債の3か月後買戻しを迫られたときは仰天しました。今思えば、禁じ手の「保証商い」をH氏が主導したのでしょう。

著者が野村證券を退社したのは1998年6月のこと。信頼する若手も同時期に野村を退社し、コンサル会社GCIの立ち上げに加わります。一度オリンパスの窮地を救った著者に同社の首脳陣から投資ファンド設立の話が舞い込み、徐々にオリンパスの巨額粉飾の核心に近づいていきます。投資スキームにはかなり明るいつもりですが、巨額粉飾事件の黒幕が仕組んだ株売買を利用した損失隠しのスキームは複雑怪奇で理解不能でした(本書326-327頁及び332-333頁スキーム図参照)。事件の真相は依然藪の中ですが、数え切れない修羅場をくぐってきた信念の人が事件の黒幕だとは到底思えません。筆者の言うように、詐欺罪で立件すべきはオリンパスであって筆者ではないように感じます。異端児の筆者が野村に留まり経営トップに登り詰めたとしたら、野村にも証券業界にもいい意味で変革がもたらされたのではないでしょうか。彼の蹉跌が残念でなりません。

バブル崩壊で失われた20年を振り返るには、本書は格好のバイブルになるのではないでしょうか。

野村證券第2事業法人部

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