『忘れられる権利』に言及しなかった最高裁決定(2017-1-31)

検索サイトに逮捕歴が表示されるのは人格権の侵害であるとグーグルに記事の削除を求めていた男性の仮処分申し立てが、1月31日付けで最高裁第三小法廷に斥けられました。


一審のさいたま地裁は「ある程度の期間が経過すれば犯罪を社会から『忘れられる権利』がある」と述べて削除を命令(2015年12月)、2014年5月に欧州司法裁判所(CJEU)が認めた『忘れられる権利』("Right to be forgotten")を国内で追認した判決として注目を浴びましたが、あっけなく最高裁に覆されてしまいました

原告男性が5年以上前に児童買春・児童ポルノ禁止法違反の罪で罰金50万円の略式命令を受けた事実は、「社会的に強い非難の対象。今も公共の利害に関する事実」であるとして、最高裁は削除を認めませんでした。『忘れられる権利』には触れずじまいでした。

この最高裁の決定には強い違和感を覚えます。該当する犯罪が軽微な罪というつもりはありませんが、禁固刑や懲役刑を喰らったわけでもない一般人の罰金刑が、いつまでも消えない過去として検索サイト上に残るという状況は些か常軌を逸しているように思います。罪を償ったにもかかわらず、汚名は死ぬまでどころか死後も雪がれない可能性があります。一般人の私生活の平穏が少なからず脅かされるような状況が恒常化すると裁判官は危惧感を抱かなかったのでしょうか。結局、最高裁は具体的な指針を示さず、個別具体的に「表現の自由」と「表示される事実の性質や内容」を比較衡量して、削除の可否を判断していく方針のようです。

以前、旧友が勤務する大学で3ヶ月の停職処分を受けて地方紙に掲載されたことがありました。パワハラやセクハラが処分理由だったと記憶していますが、アーカイブに記事が残るかぎり、個人名と不名誉な処分は共起語となって復職後も彼の心の安寧をかき乱す虞は高いのです。未来永劫、家族の気分が晴れることもありません。幸い、地方紙の記事は本人の申し出が認められ検索サイトから消えたようですが、第4の権力であるメディアが削除に応じなければくだんの男性同様、司直の判断を仰ぐことになっていたかも知れません。国内で類似の裁判がどの程度あるのか定かではありませんが、身近でこうした出来事が起こるくらいですから、かなりの数の訴訟が係属している気がしてなりません。

最高裁決定を報じるのは新聞ですから、「表現の自由」を錦の御旗にして「プライバシーを公表されたくない利益」を過少評価するキライが否めません。グーグルが主張したもうひとつの論点、「検索サイトは機械的に結果を表示しているだけで『表現』ではなく、削除請求は元のサイトにするべきだ」という主張が斥けられた点は幸いでした。「表現行為の側面を持つ」のは明らかです。今や、圧倒的な利用者を誇る大手検索サイトは、公器として『忘れられる権利』を最大限尊重し一般人のプライバシーに配慮した削除指針を設けるべきなのです。さらに、一般人から削除の申し立てがあれば機敏に対応する責務を負っていると考えるのが合理的です。ところが、表現の自由に重きをおく米国籍のグーグルとプライバシー保護を重視する欧州の間には、埋めがたい溝があるようです。

学生時代、精読していた憲法のテキストにプライバシーの権利とは「自己に関する情報をコントロールする権利」とありました。勿論インターネットもスマホも存在しなかった時代です。この定義はIT時代にこそひときわ光芒を放って見えます。

敬愛する作家がこんなことを言っています。メディアに顔を晒さない彼は読者から「あなたは誰と」聞かれる度にこう応えるのだそうです。「自分の知らない誰かさんに自分の素性が知られるというのは不愉快極まりないからね」と。実名は避けてハンドルネームを使いながら自己の情報をコントロールする術を身に着けておかないと、いつ何時、検索サイトにしっぺ返しを食らうかも知れません。この記事に関心のある方には、原告代理人を務めた神田知宏弁護士の書いた『ネット検索が怖い』がお薦めです。

(059)ネット検索が怖い (ポプラ新書)

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