御嶽山大噴火の教訓

2年前の9月27日11時52分、突然、御嶽山が噴火して63名の登山者が命を落としました。そのうち、5名のご遺体は今も見つかってはいません。友人の後輩3人もこの噴火に巻き込まれて、帰らぬ人となってしまいました。今も噴石や火砕流・火山ガスの危険があるため、御嶽山剣ヶ峰方面への立ち入りは規制されています。1991年6月の雲仙普賢岳火砕流で犠牲になった43名を上回る戦後最悪の火山災害となった御嶽山大噴火、山頂周辺に居合わせたのは250名余り、生死を分けた境界線はどこにあったのでしょうか。

百名山のひとつでもある御嶽山の標高は3067メートル、日本で14番目の高さがあり、火山では富士山に次ぐ高峰です。高さの割には、7合目(2150メートル)までは御岳ロープウェイで登れるので初心者でも比較的アプローチしやすい山といえます。運命の日は、晴天に恵まれた土曜日という紅葉日和でした。噴火の起きた正午直前は、大勢の登山客が山頂周辺まで到達し、雄大な自然をバックに写真を撮ったり、談笑しながら昼食をとっていた時間にあたっていました。

噴火から2年が経ちヤマケイ新書から相次いで関連本が出版されたので、早速手にとって読んでみました。涸沢カールもそうでしたが、シーズンともなると紅葉スポットには大勢の登山者が押し寄せます。紅葉に彩られた美しい景色と遭難ほど似つかわしくないものはありません。まして、遭難といっても道に迷ったり滑落転倒の類いならいざ知らず、噴火と遭遇することを想起しながら登山する人は皆無に近いでしょう。突然やって来る天災からどう身を守るのか、御嶽山大噴火から生還した山岳ガイド小川さゆりさんの著書『御嶽山噴火 生還者の証言』から、教訓を探ってみることにします。


山岳ガイドで救助隊員を務める小川さんでさえ、「活火山を登りながら噴火をまったく想定していなかった」、「危険に対する想像力が足りなかった」と述べています。お鉢の外輪手前で噴煙を見た小川さんは、落石から身を守るために即座に登山道脇の岩に張りつき頭を抱えたそうです。視界を遮るような腐乱臭の強いガスが立ち込めはじめ、やがて噴石が凄まじい勢いで降ってきました。あたりが真っ暗になるまで数十秒しかありませんでした。火山灰はまたたくまに40センチほど積もったそうです。噴石同士がぶつかり合い時速は数百キロに達し、山頂からは悲鳴が聞こえたそうです。

噴石・火山灰と火山ガスが登山者の命を奪った直接的要因です。剣ヶ峰付近が噴火口となったため、付近に2つあった山小屋に身を寄せたり、神社の軒下に隠れおおせた人は救われました。噴石で天井に大きな穴があくような状況だっただけに、屋内も決して安全な場所ではありませんでした。ガス吸引対策としてタオルで口の周辺を覆って下山した人、咄嗟の判断で岩陰に隠れた人は経験値の高い登山者だったようです。火山性ガスにやられないために風上に逃げるということも意識しておくべきでした。

頭部を守るヘルメットを着用していなければ帽子の上からザックやタオルで防御、基本装備である程度身を守ることができたことが生還者の証言で分かります。夜間ともなればツェルトやダウンジャケットで寒さを凌ぎ命を繋ぐことができます。長期戦ともなれば数日分の飲料水や食料があるかどうかも生死を分けるファクターです。装備の大切さを身をもって体験した生還者の言葉は重みが違います。「備えあれば憂いなし」とはこのことです。


小川さんは、「噴煙を見てからどれだけ早く危険と判断でき、命を守る行動に移れたか」が鍵だったといいます。そして最後は「運」。「生きて帰って来られたのは運がよかっただけです」と言えば、誰からも恨まれず死者を鞭打つこともありません。しかし、紙一重で命を繋げた理由として、あえて「運」のほかに「瞬時の判断」と「身についた技術」を挙げた小川さん、大惨事となったこの噴火から学ぶにはこうした生還者の言葉に耳を傾けるしかありません。

小川さんの本を読み終わって、言い訳が通用しない大自然を相手にしたとき、自分の命は自分にしか守れないのだということを痛切に知らされました。台風、地震津波、落雷・・・天災はいつ襲ってくるか正確に予知することはできないのですから。

備考:2016年9月3日の朝日新聞に「広がる登山届の義務化」という記事がありました。御嶽山の噴火で犠牲となった63名のうち登山届を提出していたのはわずか11名。安否確認のためにも登山届は必ず出してから出発しましょう(ネット上でも提出可能です)。