「格差社会」について考えてみる

「3.11」以降、この国の抱える問題点を議論するTV討論会や特集が俄かに増えたように感じています。それ以前から連綿と議論されていながら、今だ解決の糸口すら見えない財政破綻懸念や年金問題に加え、少子高齢化を背景に「格差」という言葉が盛んに使われるようになりました。最近、読んだ講談社現代新書のタイトル『マンション格差 あなたのマンションは「勝ち組」「負け組」?』(榊 淳司著)は、「格差社会」と呼ばれるこの時代を見事に象徴しています。ほかにも、『18歳からの格差論』、『日本の教育格差』、『23区格差』、『美貌格差』等々、「格差」をブックタイトルにしたものは枚挙に暇がありません。

どうやら「格差」は急速に社会問題化しつつあるようです。辞書を引けば、「程度の差」や「違い」というありきたりの意味合いしか持たないはずなのに、「格差」という言葉は水と油のように交わり難い隔たりを生み出しています。「貧富の差」が「経済格差」に置き換わった瞬間、富める者が落ちぶれたり逆に貧しい者が富める可能性が真向から否定されるような印象を受けてしまいます。「格差」は再生産されると云われるように、「格差」の本質はその不可逆性にあると考えます。

年金問題はその典型で、世代間で損得艦勘定が著しく異なるので、「年金格差」は有効な対策を講じないと固定化されてしまいます。既存の賦課方式の見直しをしないかぎり、次世代は経済的窮地に追い込まれることになります。「教育格差」も親が貧困だと教育投資ができないため、塾へ通ったり私学へ進学したりする子供の教育機会を奪っててしまう可能性が指摘されています。さらに深刻なのは、孫の世代へも「格差」が継承されてしまうことです。

原因はどこにあるのでしょうか。スマホ世代の論客は<この国のOSは60年代から変わっていない>と喝破しますが、云い得て妙かも知れません。<苦しいことがデフォルト設定>だと主張する向きもあります。いずれにせよ、国のカタチを根本からリフォームしていかないと「格差社会」の綻びは見えてはきません。一方、有権者の母集団で圧倒的なパワーを保持するのは旧システムに埋没している世代です。ハーバード大学マイケル・サンデル教授が憂慮する民主主義の形骸化が日本でも進展しているというわけです。米国の政治学者ロバート・ダールはこうした手続き的民主主義の弊害を克服するためには多元的階層の政治参加が必要だと主張します。国政選挙にせよ都知事選にせよ知名度ありきの所詮は人気投票、選挙システムを再構築しない限り、この国の未来に光は見えてこないでしょう。

「格差」を生み出すもうひとつの背景に巨大情報社会の到来があります。デジタル・デバイドと呼ばれるIT社会から疎外された層は、PCやネットワークを使いこなせないために社会的に孤立してしまいます。SNSで繋がっていないと安住できない世代ではなおさらです。コミュニケーションをオンの世界に依存することに自体に疑問符がつきますが・・・そこには、PCやスマホを使いこなせないという以前に、経済的理由で固定費が馬鹿にならないPCやスマホをそもそも保有できないという層も含まれます。月額7000円前後といわれる通信費用を負担できる層とそうでない層の間には、すでに目に見えない障壁が出来上がりつつあります。

さらに、ネット上で日々吐き出される厖大な情報に囲まれてネットユーザーのなかでも、「格差」は拡大していきます。「検索社会」にあって、的確に情報を取捨選択しながら活用できる人とそうでない人との間には著しい「経済格差」が生じることでしょう。後者は確固たる価値観や指針をもたないまま、時々の流行りの情報に縋りついてただネット社会を漂流しているにすぎません。こうした「情報格差」が、1億総中流と呼ばれた牧歌的な時代とは対照的に、階層分化に拍車をかけるのは間違いなさそうです。これまでの日本は、社会的地位の非一貫性の強い中流階層が支えてきたわけですが、今後は中流階層が次第に下流へと転落してゆき、社会的資源がひとつの階層に集中する可能性が高いといえます。

結論として、「格差社会」は拡大こそすれ、前述してきた様々な「格差」が解消されることはありません。「格差」の存在をひとまず受け容れて、どう対処するかを考えてみましょう。個人が「格差社会」を生き延びるための唯一の処方箋は、デジタルリテラシーとフィナンシャルリテラシーを身に着けておくことです。学校で教わったことは以前から社会で殆ど役に立たなかったわけですが、これからはさらにその傾向が強まることでしょう。読み書き算盤に代わるスキルやノウハウで自らを武装して、絶え間なく変化する社会に適応していくことこそ、生き延びるための方途なのです。低成長の「格差社会」はなかなかに手強い存在なのです。