生誕150年展で知る「公園の父」本多静六の生涯〜その1〜

本多静六博士は、明治神宮日比谷公園をはじめ全国各地で70箇所以上の造園に携わり、日本の「公園の父」と呼ばれる立志伝中の傑物です。博士の偉業は短いブログでは到底ご紹介しきれないのですが、日比谷公園内にあるみどりのiプラザで開催中(〜10/19まで)の「本多静六生誕150年展」を見学してきたので、この機会に2回に分けて記事にしておこうと思います。

慶応2(1866)年、博士は折原家(現埼玉県久喜市)の6番目の子供として生を受けます。若い時分は書生として働きながら17歳で東京山林学校に入学します。入学したといっても、中学さえ出ていないので成績はビリから2番目だったそうです。ところが、苦学を重ねつつ独特の学習法を編み出し次第に頭角を現していきます。卒業時には優等生として恩賜の銀時計を授かっています。

すでにその頃から傑物の片鱗をのぞかせるところが只者ではありません。縁談が持ち上がったものの結婚する気のない博士は、みずぼらしい身なりで招来の岳父の前に現れ、縁談相手の食事まで平らげたりと蛮行に及びます。ところが却って岳父本多晋に気に入られ、長女詮子さんと結婚し本多家の養子となります。

24歳で農科大学を卒業するとドイツに私費留学、ターラント山林大学を経て、ミュンヘン大学で国家経済学を修め博士号を取得します。現在でも農学部には農業経済学という分野がありますが、ドイツで森林を経済財と見做す思想に触れたことは、彼の人生の方向性を決定的なものにします。

帰国後、大学で教鞭をとる傍ら、様々な国家的事業に参画していくことになります。地吹雪に悩まされる東北地方では初の鉄道防雪林の設置に尽力し、大学演習林の整備も進めます。

博士が東京山林学校で学び始めたころ、「山林は天保銭より廉い学問」と揶揄されたそうです。そんな不見識に左右されず、海外で学んだ知識を武器に「山林は国家経済の柱である」と博士は考え、山林の効用を説き続けます。展示を見て驚いたのは、明治37(1904)に博士が著した『森林家必携』という小冊子が今なお版を重ね、森林関係者のバイブルとなっていることでした。ちなみに最新改訂版は2003年の発行で73版なのだそうです(写真下)。