NHKスペシャル「決断なき原爆投下」で知るトールマン大統領の変節

今日は長崎原爆の日。71年前の午前11時2分、B29爆撃機ボックスカーから「ファットマン」が長崎に投下されました。当初の爆撃目標は小倉でしたが天候悪化のため急遽長崎に矛先が向けられ、結果、長崎の推定人口24万人のうち14.9万人が命を喪いました。「ファットマン」は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」の1.5倍の破壊力を有し、プルトニウム由来の強い毒性を帯びた原子爆弾でした。

時の鈴木貫太郎内閣が軍部の抵抗に遭ってポツダム宣言受諾を決断するまで随分もたついたとはいえ、婦女子ら非戦闘員をターゲットにした原子爆弾投下を免れる余地はなかったのでしょうか。8/6のNHKスペシャルが戦後71年目にして、新たな事実を明らかにしてくれました。


ポツダム宣言が日本に届いたのは7月27日、その3日前に原爆計画責任者グローブス准将起案に係る原爆投下作戦の命令書は正規の手続きを経てポツダムにいたトルーマン大統領に承認されたというのがこれまでの定説でした。昭和史の泰斗半藤一利氏の『昭和史(1926-1945)』にもそう書かれています。そして、原爆投下は戦争を1日も早く終結させ多くの米兵の命を救うためにやむを得ない手段だったのだと勝者合衆国は一貫して主張してきました。ここからも分かるように、ポツダム宣言が発せられる前から原爆投下は不可避の作戦だったことになります。

ところが、1945年4月12日、ルーズベルト大統領の急死に伴い大統領に昇格したトルーマン副大統領には原爆計画の詳細は一切知らされていなかったというのです。軍部はもとより政府首脳にも原爆投下に関して些かの逡巡も躊躇いもなかったというこれまでの歴史認識を、今回のNHK取材が根底から覆してみせたのです。

原爆投下目標は軍事施設に限るとするトルーマン大統領は、グローブズ准将が用意した24頁に及ぶ報告書の詳細を知ろうとはしませんでした。黙認されたと判断した空軍は着々と計画を推し進めていきます。さらに、目標検討委員会メンバーにトルーマン側近は含まれておらず、気象学者など科学者と軍部の間で具体的なターゲット(locations of military target)の検討がなされていきます。シビリアンコントロールがまったく機能していなかったことになります。かろうじて文民だったスティムソン陸軍長官が古都京都をリストから除外させることに成功した点が、唯一の救いでした。トルーマン大統領は日記に婦女子ら一般市民をターゲットにしないようにと明確に書き残しているにもかかわらずです。

8月8日のスティムソン陸軍長官の日記には、大統領に原爆投下の写真を見せたとあります。ここでトルーマン大統領は、明確な決断を怠り無辜の市民を巻き添えにした原爆投下の責任が自らにあることを悟ることになります。翌日の友人に宛てた手紙のなかで、トルーマン大統領は「日本の女性や子供たちへの慈悲の心は私にもある」と記しているのだそうです。8月10日になって、トルーマン大統領はこれ以上の原爆投下は中止するという遅きに失した決断を下します。当初の計画では1945年末までに17発の原爆投下が予定されていました。

グローブズ准将は、原爆計画責任者として、大統領の明確な決断を欠いたまま原爆投下を強行したことになります。その背景には22億ドルもの国家予算を費やした新兵器の威力を最大限に推し測りたいという軍部や科学者たちの身内の論理があったのは明らかです。その論理の前には人道的配慮など微塵もなかったというわけです。勝者米国にあっても軍部の暴走を政府が食い止めることはできなかったという事実に愕然とさせられます。

ヒトラーを凌ぐ残虐行為をしたという汚名を恐れたスティムソンは、その後、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明します(1947年2月)。トルーマン大統領は勝ち戦に乗じて、原爆使用の正当性を強弁するようになります。決断を怠った大統領の素早い変節ぶりにただただ呆れるしかありません。

米国での資料蒐集は困難の連続だったに違いありません。NHKの粘り強い交渉力と丹念な取材の成果に脱帽です。米政府の公式見解は当面揺らぐことはないかも知れませんが、近い将来、正しい歴史認識が日米双方で共有されることに期待したいと思います。