「文系学部で何を教えるか」という議論の行方

近頃、財務省が運営交付金を削減する方針を打ち出し、国公立大学の授業料が16年後には今の53万円から93万円になるのだとか。一方、文科省は昨年、スーパーグローバル大学という枠組みを創設して、徹底した国際化を図る方針だといいます。21世紀になってもなお政府主導で国際化を標榜せざるを得ないこと自体、実に情けないではありませんか。

入学偏差値というものさしによる大学の序列化は従来からあったわけですが、少子化の加速で、ますます大学の生き残りが難しくなってきたことは間違いありません。

そもそも、最高学府である大学の数、ひいては大学生の数が多すぎます。文科省の「学校基本調査報告書」によれば、1966年当時、大学生になれたのは18歳人口対比10.5%(国公立大生はわずか3%)、それが2011年には60.3%が大学生(国公立だけでも16%)になれるようになったのです。大学生の質の劣化は火を見るより明らかです。昔であれば、不合格だった50%が大学の門をくぐるわけですから。さらに、推薦入試やAO入試という面接や作文だけの入試が、今や入試形態の過半を占める選抜方式ですから、事態は極めて深刻です。狭き門より入れでなければ、真のリーダー育成など絵空事です。

経営コンサルトの冨山和彦さんは「学生には、職業人として必要なスキル、実践力を大学で身につけて欲しい」と力説されていますが、同感です。「サミュエルソンの経済学ではなく簿記会計を、シェークスピアより観光業で必要な英語こそ学べ」と重ねて冨山氏は言い放ちます。憲法より宅建法はさすがに言い過ぎかと思いますが・・・。

圧倒的に数の多い文系学部がやり玉に挙がるのもむべなる哉です。幅広い教養は豊かな人生を歩む上で必要な資質です。それは、学校で教わるというより、幼少期からの読書体験に始まり、生涯をかけて獲得していくものだと自分は考えます。

大学の数を俄かに削れないのであれば、人文系学部では実社会で役立つスキルを優先して学ばせるのが筋というものです。かつて法科や経済は潰しが効くといわれましたが、今やそれすら甚だ疑わしいものです。文系アカデミズムに蔓延していた実学軽視の風潮(実学をやる人はsecond citizen)にくさびを打ち込むべきは今しかありません。

「ヨーロッパが生んだ最大の発明の一つは複式簿記である」(『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』)と言ったのは、ワイマール 公国の財務大臣でもあった文豪のゲーテです。この名言を知ったのは銀行で会計簿記の勉強をし始めた20代後半のときでした。ゲーテの慧眼恐るべしですね。

ヴィルヘルム・マイスターの修業時代〈上〉 (岩波文庫)

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