一畳敷の世界

今日、ICUの敷地内にある泰山荘を訪れ、かねてから見たいと思っていた「一畳敷」の見学が叶いました。例年、ICUの文化祭期間中にだけ公開される国登録有形文化財なので、貴重な見学機会(完全予約制)を得たことになります。なお、写真撮影は禁止ですので、添付写真はネット上から拝借しました。

昨秋、静嘉堂文庫美術館で開催されていた「松浦武四郎」展でその存在を知った「一畳敷」は、想像以上に魅力溢れる空間でした。内田魯庵が「好事の絶頂」と評した理由もすんなり頷けました。というのも、「一畳敷」の敷居を跨いで内部を見学することができたからです。まさか、畳に座って天井や床の間を拝むことができるとは思いも寄りませんでした。

この「一畳敷」は、北方探検家で北海道の名付け親として知られる松浦武四郎(1818〜1888)が最晩年に自らの書斎にと拵えたものです。矮小な空間が文化財に指定され珍重されるのは、全国各地から集められた古材で建てられたからに他なりません。しかも、そんじょそこらにある古材や廃材ではありません。

古材目録『木片勧進』から、建材の出所を少し紹介しておきます。
・床の間の床板(京都・聚楽第
・一畳廻り額縁板(吉野山・吉水院)
・天井板(熊野本宮神社)
・神棚板(出雲大社
・母屋桁(伊勢神宮

京都の寺社仏閣には、聚楽第伏見城の遺構と称される建築物が数多く見られますが、松浦武四郎の一畳敷世界はスケールが違います。主人が齢を重ね各地へ足を伸ばすことが難しくなった明治19年1886年)秋、「一畳敷」は完成します。夏場は蚊帳を張って「一畳敷」で過ごしたと云われています。天井には雲龍が描かれていました。この空間は、身長僅か142センチの松浦武四郎にとって小宇宙にも匹敵する存在だったに違いありません。居ながらにして、日本中の歴史的建造物に直に触れることができるのですから。

神田五軒町で誕生した「一畳敷」は、その後、紀伊徳川家ゆかりの「南葵文庫」に引き継がれ、関東大震災を契機に大磯の徳川邸に移されます。その間、当主の徳川頼倫は「一畳敷」同様に日本中の歴史的建造物の部材を使って茶室(「高風居」)を建てようと考えます。その夢を実現したのは新興財閥日産関連会社の重役を務めた山田敬亮でした。さらに年を下ると、「一畳敷」は中島飛行機の創業者中島知久平の持ち物となり、戦後、ICUへと継承されていきます。

数奇な運命を辿りながら、「一畳敷」は今も国分寺崖線上に静かに佇んでいます。

幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷 (INAX BOOKLET)

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