国家権力としての司法〜『法服の王国』の教訓〜

黒木亮の最新刊『法服の王国』上下巻を一気呵成に読んで、三権分立とは所詮絵空事との思いを強くしました。本書は、司法修習同期の主人公村木健吾と後年最高裁判所長官まで上り詰める津崎守の生きざまを描いて、裁判所という国家権力の実相に迫ります。主要登場人物の殆どが実在の裁判官だけにノンフィクションに近いと云えるかも知れません。津崎守を最高裁中枢へと引き上げる弓削晃太郎のモデルはミスター司法行政と呼ばれた矢口洪一です。

裁判は刑事裁判と民事裁判に大別され、後者には国や地方公共団体行政処分の取り消しや変更を求める行政裁判も含まれます。国が被告になった場合、そもそも裁判所に公正な裁判を期待することができるのでしょうか。本書は司法行政という側面にスポットをあて、裁判所(最高裁判所)が政府与党と結託し時の権力者に都合の悪い下級審判決を次々と覆す構造を明らかにしていきます。

憲法第76条は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定し、裁判官の独立を保障しています。しかし、これはあくまで建前に過ぎず、下級審の裁判官も人の子、将来出世したければ上級審の意向ひいては最高裁の意向に逆らうわけにはいきません。

極く一部のエリート裁判官を除いて大多数の裁判官は、地方勤務と大都市勤務を繰り返しながら定年を迎えます。判事補を5年務めると単独で裁判ができる職権特例判事補に、10年恙無く判事補を務めあげれば晴れて判事になることができます。とはいっても、裁判官の任期は10年、従って10年ごとに内閣による再任を受けないと失職してしまいます。青法協に所属していた宮本康昭熊本地裁判事補の再任を最高裁が拒否した事件がその一例です。

裁判官の人事評価が気になるところですが、サラリーマン同様、学閥や入社成績に相当する司法修習卒業時の成績に加え、事件処理能力と審理・判決内容が問われるようです。人事評価がすぐれないと窃盗や金銭の貸し借りを巡る紛争処理に明け暮れる僻地勤務を強いられ、社会的に注目される事件を担当できる可能性がある大都市の裁判所勤務の目は遠ざかることになります。1973年9月、長沼ナイキ基地訴訟一審(札幌地裁)で「平和的生存権」を認め自衛隊違憲判決を下した福島重雄裁判長は、その後左遷され福井家裁を最後に退官しています。

過去、公害訴訟や薬害訴訟で大企業や官公庁に有利な判決が相次いだのはこうした人事評価システムが災いしています。刑事事件であれば検察のシナリオに沿って有罪判決を早く導いた裁判官が評価されるわけですから、冤罪事件は後を絶ちません。破廉恥犯罪の典型痴漢行為など、裁判官にしてみればとっとと片づけたい案件でしょうから、周防監督の映画「それでもボクはやっていない」さながら、いとも容易く有罪判決が下されてしまいます。

公正無私を装う司法という名の国家権力の恐ろしさを改めて実感します。三審制は公平中立な裁判を保障する制度ではなく、むしろ権力者の意向に沿わない下級審判決を破棄するための制度と捉えておいた方が賢明でしょう。チェック&バランスという司法府に期待される役割は、行政訴訟に関するかぎり機能不全をきたしていると云って差し支えありません。本来の原告適格なしとして門前払い判決を乱発する司法府の横暴と思考停止ぶりは、目に余るものがあります。

本書の下巻は原発建設(運転)差し止めを求める民事訴訟を取り上げ、主人公村木判事が下した住民勝訴の判決(=井戸謙一判事による志賀原発2号原子炉運転差し止め判決)が上級審で覆る過程を描いています。2011年3月11日の東日本大震災福島原発が被災し、村木判事の指摘した<周辺住民が許容限度を超えた放射線を被曝する具体的危険>が現実のものとなりました。原発の危険性を十分に認識しながら、「今さら国じゅうの原発を止めるわけにもいかない」という事情判決的発想が、本来最後の砦であるはずの裁判官(司法府)から正義と良心を奪い去り、原告住民を生命の危険に晒したのです。司法府の犯した大罪を一体誰が断罪してくれるのでしょうか。刑事裁判だけではなく、民事裁判にも裁判員制度の導入を検討すべきではないかと強く思う次第です。

法服の王国 小説裁判官(上)

法服の王国 小説裁判官(上)

法服の王国 小説裁判官(下)

法服の王国 小説裁判官(下)