「夏目漱石の美術世界展」@東京藝術大学大学美術館

先週の日曜日が展覧会の最終日、猛暑のなか、上野の森に足を運びました。上野の森の外れにある藝大美術館は、都美や西洋美術館に比べれば少し知名度が劣るので、その日はゆったり鑑賞できるはずでした。ところが、すでに入口正面の1階チケット売り場に行列ができていて、会場は大勢の来館者で賑わっていました。学生や二十代カップルの姿もちらほら、漱石人気いまだ健在なのだと少し吃驚しました。

今回の展覧会は、夏目漱石の小説や美術批評に登場する画家の作品を展示して漱石の表現世界を視覚的に再現しようとする初めての試みで、漱石ファンには堪えられない企画でした。自筆原稿や遺愛品を展示するありふれた展覧会とは根本的にアプローチが違います。

学生時代、ロンドン・テイトギャラリーで見た「チャイルド・ハロルドの巡礼」(ターナー作)と数十年ぶりに再会できました。アーサー王伝説を題材にした短編小説『薤露行』に登場するウォーターハウスの「シャロットの女」は、現実世界を見たが故に呪いで落命する女性だけに妖艶きわまりない存在として描かれています。文章表現に絵画世界を持ち込んだと言われる漱石が実際に見た絵画を目の前にしその傍らでキャプションにある漱石の表現を諳んじると、タイムスリップしたような錯覚に囚われました。

西洋美術だけではなく、漱石が関心を寄せていた古美術や同時代の美術作品も数多く展示されていました。特に面白いなと思ったのは、『三四郎』に登場する原口画伯の「森の女」を藝大OBの作家が漱石の表現から再現してみせた油彩画(推定試作と銘打ってありました)でした。

友人の津田青楓から手ほどきを受けて漱石自ら描いた南画(岩波書店所蔵)はどこか牧歌的で、自身の犀利な批評眼からは解き放たれているようでした。ただ、彩色画よりは竹を描いた水墨画や晩年に筆をとったといわれる「帰去来辞」にこそ、漱石の人生観や人格が滲み出ているように思います。

3階展示室から地下の展示室へと移動し、ひととおり展示を見終わると3時間余りが経っていました。地下展示室の出口に近づくと漱石の石膏デスマスクと対面することに、49歳でこの世を去った漱石が創作に専念したのは僅か10年、東西の文化に通じ卓越した教養を備えた文豪の脳裏に暫し思いを馳せてから、心地よい余韻を感じつつ会場を後にしました。