『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』を読んで

ピュリツァー賞アメリカの新聞王ジョゼフ・ピュリツァーの遺言により創設されたものです。そのピュリツァー賞の報道写真部門の受賞作すべてを収めた写真集が昨年12月に出版されました。1942年のデトロイト労働争議を撮った写真から始まるピュリツァー賞の歴史をたどると、過去70年の世界が戦禍に明け暮れていたことを改めて思い知らされます。その象徴とも云うべき写真「硫黄島星条旗」(1945年)は、有史以来初めて国土を脅かされた日本が陸海軍の総力を挙げて硫黄島を死守しようとした壮絶な戦闘帰趨の瞬間をとらえたものです。それから57年後のNYで世界貿易センターがテロ攻撃に襲われ倒壊します。ニューヨーク・タイムズ紙の一面の半分近くを占めたという写真を見ると今も胸が塞がれます。

3人の日本人受賞者のなかで最も有名な沢田教一は受賞作「安全への逃避」を撮った5年後、カンボジアプノンペンの南を走る国道2号線で狙撃され落命しています。写真集の序で『ベスト&ブライテスト』の著者デービッド・ハルバースタムはすぐれた写真家について、<彼らは常に、めったにない出来事に遭遇する準備ができていた。そして、そのめったにない出来事が起きたとき、逃さずそれをとらえたのである>と述べています。絶えず危険と背中合わせの状況でファインダーから目を離さない報道カメラマンがとらえた歴史の瞬間こそ、記録するにふさわしい映像と云えるのでしょう。

まだ記憶に新しい<ハゲワシと少女>と題する写真を撮ったケビン・カーターは、ピュリツァー賞授賞式の一ヶ月後ガス自殺を遂げています。1993年、休暇中のカーターはスーダンで地面に平伏すようにうずくまるやせ細った少女に狙いをつけたハゲワシを写真に収め、その作品が受賞作となります。カーターは数枚の写真撮影直後にハゲワシを追い払ったそうですが、子供を救うことより写真を撮ることを優先したと痛烈な批判に晒され、それが次第に彼を追いつめていくことになります。ときに死線を彷徨うような熾烈な現場にあって一心不乱にファインダーを覗くカメラマンに、平時の倫理感や道徳を求めるのは些か酷な気がしてなりません。

ピュリツァー賞 受賞写真 全記録

ピュリツァー賞 受賞写真 全記録