NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」に寄せて

昨夜放映された「日本海海戦」を以って3年越しのNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が終了しました。もうこれでおしまいかと思うと名残惜しくてなりません。

原作者及びドラマ制作者に感謝の意を込めてドラマの感想を書き記しておこうと思います。ドラマ化への道程は平坦ではなかったようです。軍国主義を助長しかねないからという理由で生前作者司馬遼太郎氏は本作品の映像化を頑なに拒んでいたそうです。理由はしかしそれだけにとどまらないように思います。登場人物に限っても千人を超えるという壮大無比の歴史小説だけに、そもそも映像化は至難とあらかじめ作者が判断していたからではないでしょうか。穿った見方をすれば、自身の代表作が安っぽいドラマに仕立てられることを危惧したからとも考えられなくはありません。とまれ、ご遺族の了解を得て2009年から3年間(三部構成)にわたり計13回の番組が制作されました。映画化されて原作の魅力が台無しにされた例は数えきれませんが、『坂の上の雲』に関するかぎりドラマ化は大成功を収めたと断言していいでしょう。

キャスティングの妙には文句のつけようがありません。主役の秋山兄弟や正岡子規を演じた男優さん(阿部寛本木雅弘香川照之)は勿論のこと、脇を固める東郷平八郎元帥(渡哲也)や児玉源太郎満州軍総参謀長(高橋英樹)のようなバイプレーヤーの演技も冴え渡っていました。「軍神」広瀬武夫を演じた藤本隆宏さんに至っては姿形が故人の生き写しかと見紛うほどでした。ドラマの後半は激しい戦闘シーンの連続でしたが、秋山兄弟の留守宅を預かる妻女を演じた松たか子さんや子規の妹律役の菅野美穂さんは静かなる演技を通じて秘めたる覚悟を巧みに表現されていたように感じます。<降る雪や明治は遠くなりにけり>(中村草田男句)という過ぎ去った明治という時代を懐かしむ句があります。日露講和条約とも称されるポーツマス条約が締結されたのは1905年9月4日の出来事、100年以上前の史実にもかかわらず同時代を生きる俳優陣が見事に不朽の時代を再現してくれました。司馬作品のなかでも一頭地抜きんでた原作と共にこのドラマも世代を超えて受け継がれていって欲しいものです。

昨年10月に『「坂の上の雲」人物読本』という本が出版されて、原作ファンを任じる各界著名人が<わたしの好きな人物、好きな言葉>と題して原作への思いを語っています。収録された人物事典と併せて読むと理解が深まります。これに倣って、好きな人物と好きな言葉を自選してみました。人物1位はやはり秋山真之、好きな言葉は「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」、連合艦隊大本営に宛てた出撃電報本文「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス」に秋山先任参謀が書き加えた一文です。付け加えられた一文からは、抒情さえ感じられますが、大洋にあって視界が利くだけではなく波浪高ければ練磨の賜物射撃精度に勝る自軍が有利との戦況分析だったのでした。脊筋を伸ばして艦橋に佇む秋山先任参謀の凛とした表情や息遣いが伝わってくるようではありませんか。