メメント・モリ<死を想え>

朝日新聞朝刊社会面に<宅配で届く無縁仏200柱>というヘッドラインと共に親族に引き取りを拒否された遺骨の入った骨壷を宅配便で受け取る富山県高岡市の住職さんの写真が掲載されていました。遺骨がモノとして扱われ宅配便で遣り取りされる時代風潮に何ともやり場のない思いが募ります。本籍はおろか氏名さえも不詳で引き取り手不在の遺体が年々増加しているそうです。法律上はこうした身元不明で亡くなる人を総じて「行旅死亡人」と取扱い、自治体が火葬も済ませ官報で公告した上で引き取り手を待つといいますが、期待しているような遺族からの連絡は皆無に近いのではないでしょうか。熟年離婚や失業等が原因で親族と次第に疎遠になり職場も含め一切のコミュニティから放逐された末に亡くなった人に仮令死後であっても復縁は叶わないでしょう。かつて写真家の藤原新也さんは<ニンゲンは犬に食われるほど自由だ>というコピーを喧伝して物議を醸しましたが、ガンジス河をヒトの死体が流れるようにヒトは死を境に自然に還ると積極的に諦観して最期の看取りに期待しない生き方を模索すべきなのかも知れません。<みとりなき社会>を寧ろ積極的に受け容れようと言い換えても構いません。数年前チベットを訪れ鳥葬台を遠くに仰ぎ見たとき、これもチベット人らしい理に叶った自然葬の受け容れ方だと感じたことを思い出します。チベット高地では環境に負荷のかかる火葬も土葬も選択肢ではないからです。藤原さんは自身のHP上に「死の瞬間が、生命の標準時」と刻んでいます。衆生救済力が衰えてきた宗教が頼りないだけに、何人もひとたび生を受けた以上死を想念する力を養うことが求められつつあります。日常生活で死に方に備えるのは背馳するように見えますが生の要諦と考えればしっくりきます。ラテン語"Memento mori"に藤原新也さんは著書『メメント・モリ』(1983年刊)で「死を想え」と副題をつけています。死を想うことがより良く生きることなのです。

メメント・モリ

メメント・モリ

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