法的救済に期待する勿れ〜書評『絶望の裁判所』〜

邦銀を辞めて外資系金融機関に転職してまもない頃、法曹を目指して予備校に通っていた時期があります。ウィークディの夜は講義があり週末は答練に費やしていたので、今思えばタフなダブルライフを過ごしていたことになります。程なく海外赴任が決まって、法曹への途を封印。帰国後、証券化ビジネスが揺籃期を迎え、図らずも内外の弁護士事務所と丁々発止の遣り取りをすることになります。ドキュメンテーション・ローヤーと呼ばれる専ら契約書作成を生業とする専門家が交渉相手で、仕事上、カウンターパーティが頗る多いので、大抵会議室に20人前後が集まって討議をしたものです。15年余の長きにわたるプロフェッショナルライフにおいて、幸い、裁判所と向き合うことはありませんでした。ただ、取引先が会社更生手続きや民事再生手続きに入って、債権者集会で裁判所が選任する管財人と向き合うことは少なからずあったように記憶しています。

自分のようなバックグラウンドを持つ者でも、実際の訴訟となると、おいそれとは経験できないものです。まして、プライベートで訴訟を経験した人となると極めて稀ではないでしょうか。訴訟沙汰に巻き込まれるという言葉が暗示するとおり、社会生活を営む上で訴訟にかかわらないようにする方が得策のようです。

経験値どおり、日本における民事訴訟の利用率は極めて低く、2009年調査で米国の8分の1、イギリスやフランスの5分の1だそうです。隣国の韓国比でも3分の1だといいますから驚きです。近年は、過払い訴訟が激減しているので、さらに利用率は低下していると考えた方がよさそうです。

『絶望の裁判所』を読んで、前述の皮膚感覚どおり、紛争解決を求めて決して裁判所の門をくぐってはいけないと思い知らされました。アメリカ留学を経て最高裁判所事務総局勤務も経験した元エリート裁判官の著者が、キャリア半ばで明治大学法科大学院の教授に転身した理由のひとつに裁判所の閉鎖性が指摘できます。いかなる組織にも自己防衛機能はありますが、裁判所のそれは尋常ではありません。

刑事裁判はここでは触れないことにします。先の統計にも見るように、日本人のメンタリティに照らせば、個人が訴訟を提起する背景にはやむにやまれぬ事情があるわけです。にもかかわらず、事件処理能力というものさしで評価されてしまう裁判官は、総じて判決を書くことを避け、当事者に和解を促すのだそうです。ある程度審理が進むと、不満な原告には<判決が下っても結論は変わりませんよ>と裁判官が和解を強要することさえあるようです。安易に和解に応じるような弁護士を選任してしまうと目も当てられません。こうした挙に出る官僚裁判官を著者はトルストイの短編『イヴァン・イリイチの死』に登場する主人公イリイチに譬えています。

本書は裁判官の精神構造についても言及していますが、多少ディスカウントして読んだとしても、忌避したくなるような裁判官の姿が彷彿とします。最高裁判事には学者や官僚枠がありますが、現在の司法行政の下では筆者が尊敬に値すると述べる弁護士出身の大野正男元判事のような良識派が入り込む余地はないと筆者は断じます。まして、純粋培養の職業裁判官に世間の常識を期待するのは土台無理ということなのでしょうか。

憲法第76条3項には,「すべて裁判官は,その良心に従い独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される。」とあります。ところが、多くの裁判官が「みずからの良心」に従った裁判をしていないと断じる筆者の意見に深く頷づかざるを得ない点に、我が国の司法制度の歪みが象徴されています。英米法学者で最高裁判事も歴任した伊藤正巳氏は、国家意思を形成する司法機能を思うと慎重にならざるを得ないと述べています。果たしてそれでいいのでしょうか。

絶望の裁判所 (講談社現代新書)

絶望の裁判所 (講談社現代新書)