特別な一日~十三代目市川團十郎白猿襲名披露記念歌舞伎座特別公演~

歌舞伎座において、11月7日からいよいよ十三代目市川團十郎白猿襲名披露公演がスタートします。勸玄君は八代目新之助を襲名し、歌舞伎十八番の内『外郎売』で新之助としての初舞台を勤めます。大名跡市川團十郎>の復活は、十二代目團十郎さんが2013年に亡くなってから9年ぶりになります。

これに先立って、2日間限りの特別公演が歌舞伎座で開催されました。第5期歌舞伎座開場以来、初めて「満員御礼」の垂れ幕が掲げられるのを目にしました。大半がご贔屓筋に渡るであろうプラチナチケットを奇蹟的に入手できたので、特別公演2日目の11月1日、逸る心を抑えながら歌舞伎座へ足を運びました。夕暮れ時を迎えた歌舞伎座正面の通りは、開場を待ちわびる観客で埋め尽くされていました。赤い提灯が馥郁たる光を放って一帯は幻想的な雰囲気を帯びています。普段より和服姿の女性が目立ちます。

観世清和が翁を勤める厳かな「神歌」に始まり、104名の歌舞伎役者達が顔を揃える華やかな「顔寄せ手打式」、そして新・團十郎の弁慶に玉三郎義経仁左衛門の富樫左衛門という絢爛豪華な『勧進帳』の舞台を目に焼きつけてきました。コロナ禍で封印されてきた「大向こう」が復活し、黙食を前提に会場での飲食が認められるようになり、劇場にも少しずつコロナ前の日常が戻ってきたようです。「顔寄せ手打ち式」では、文化勲章を受章したばかりの二代目松本白鸚丈が後見を務め、十三代目市川團十郎白猿は「大きな名跡を相続するからには、歌舞伎のために、歌舞伎と共に生きられる團十郎となれるよう、日々精進する覚悟です」と挨拶、続いて八代目新之助が溌剌とした挨拶をすると、万雷の拍手が沸き起こりました。十三代目の誕生を祝って尾上菊五郎の音頭で舞台と観客が一体になって一本締めを行いました。

歌舞伎ファンのひとりとして、この佳き日を歌舞伎座で迎えられたことにこの上ない倖せを感じています。

「対馬丸事件」の語り部・糸数裕子さん死す

今月5日、「対馬丸事件」の引率教師のひとりだった糸数裕子(いとかずみつこ)さんが亡くなったことを新聞紙面で知りました。糸数さんは、生還された引率教師5人の最後の生存者だったそうです。此処数年、沖縄戦の戦跡を訪ね乍ら「対馬丸記念館」へ足を向けなかったことが悔やまれます。「対馬丸事件」当時、糸数さんは師範学校を卒業し那覇国民学校の教員になったばかりの18歳でした。「NHK戦争証言アーカイブズ」に残された糸数さんの貴重な証言(2009年11月5日収録)を聴くと、「対馬丸事件」前後の時代状況がよく分かります。新任教員だった糸数さんは「こんな大きな船だから大丈夫だ」と思ったそうです。

対馬丸事件」とは、沖縄戦の前年8月22日、本土へ疎開する学童ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」(6754トン)が那覇港を出発、鹿児島県沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈した事件を指します。当時、軍や警察が「対馬丸」が撃沈されたことをひた隠しにし、関係者に厳しい箝口令を布いたため、学童を送り出した親御さんらには消息が伝わらなかったそうです。軍が怖れたのは「対馬丸」沈没が広まると、疎開が進まなくなると判断したからです。人の口に戸は立てられません。疎開先から手紙が届かないことを不審に思ったご家族の間で真相は次第に伝わっていったようです。ところが、翌年の沖縄地上戦で県民の4人にひとりが亡くなったため、学童のご両親が声を上げる機会を失った可能性が大なのです。

学童800人弱を含め乗員の8割強約1500人が犠牲になったと伝えられています。被害の全容は今も明らかになっていません。1997年に沈没した「対馬丸」の船影が発見されましたが、政府は引き揚げ困難と判断し、代わりに「対馬丸記念館」の建設が決まりました。沈没から60年目の2004年8月22日に那覇市若狭で「対馬丸記念館」が開館します。

大勢の学童が犠牲になって、一番辛い思いをしたのは生き残った引率教師です。お子さんの疎開を渋る親御さんを説得する役割を担ったのは、糸数さんら引率教師でした。自責の念と共にサバイバーズ・ギルトを背負って戦後を生き抜いた糸数さんのご冥福をお祈りします。

ヤナギランの丘を訪ねて

10月上旬、数年ぶりに1泊2日の日程で尾瀬ヶ原から尾瀬沼へトレッキングしました。湿原植物の宝庫・尾瀬の最大の魅力は、春のミズバショウに始まり、初夏のワタスゲレンゲツツジ、夏のニッコウキスゲ、秋の草紅葉とテンポの早い季節の移ろいのなかに豊かな色彩の変化が見られることです。

尾瀬を訪れるようになって、真っ先に読んだのが『尾瀬-山小屋三代の記』(後藤允著・岩波新書・絶版)でした。本書を通じて、開発から尾瀬大自然を守った平野長蔵さんから始まる三代の献身的な取組みと奮闘ぶりを詳しく知って、かねがね平野家三代の墓所のあるヤナギランの丘を訪ねたいと思っていました。

ヤナギランの丘は、大江湿原のシンボル3本カラマツの見える木道から少し北へ進んだあたりに位置する笹原状の台地のことです。8月には周辺にピンク色のヤナギランが咲くことからこの名があります。

お墓の前にたどり着くと、数名のグループがガイドさんからの説明を熱心に聞き入っているところでした。グループのひとりが、三代目・長靖さんの著書『尾瀬に死す』について話をされているのを耳にしました。長靖さんは群馬県片品村に生まれ、京都大学を卒業後、北海道新聞社に就職されたのですが、二代目・長英さんから小屋を任された次男・陸男さんが急逝されたため、急遽、家業の長蔵小屋主となったのです。

その頃、三平峠を経由して沼山峠に至る観光道路建設が始まっていて、長靖さんは初代大石武一環境庁長官に建設反対を直訴すべく単身上京し、長官の現地視察を実現させ「尾瀬は世界の宝庫だ」と言わしめたそうです。新潟・福島・群馬の三県知事に加え、時の通産大臣田中角栄も一度認めた工事を中止させるのは無謀だとし、長靖さんは建設推進派から猛反発を喰らいます。先の三代記には地元片品村村民からも工事推進陳情があったと書かれています。四面楚歌の長靖さんは「尾瀬の自然を守る会」を発足させて、工事建設反対に向けて全国規模の自然保護運動展開へと動きます。

そのさなかの1971年12月1日、小屋の越冬準備を 終えた長靖さんは、吹雪の三平峠を下り一ノ瀬休憩所にたどり着く寸前で力尽きて帰らぬ人となったのです。享年36でした。

今日まで尾瀬の美しい大自然が受け継がれ次世代へと継承できるのは、長蔵小屋三代にわたる不断の努力と尾瀬の自然に対する惜しみない愛情の賜物なのです。こうした経緯を知らないで尾瀬を訪れる若い世代に、尾瀬自然保護運動発祥の地と呼ばれる歴史的経緯を少しでも知って欲しいと願っています。これからも、大江湿原を訪れる機会があったときは必ず少し足を延ばして、長蔵小屋主三代への感謝を込めてヤナギランの丘で手を合わせたいと思っています。

尾瀬ヶ原のスマホ事情~困ったときは山小屋の携帯衛星電話を頼ろう~

10月初旬、友人ふたりを伴って晩秋の尾瀬を訪れました。初めて尾瀬を訪れるというふたりには、尾瀬ヶ原だけではなく尾瀬沼まで足を延ばして欲しいと思い、見晴にある弥四郎小屋を手配しました。鳩待峠から入山し東西約6km・南北3kmの尾瀬ヶ原を歩いて往復するだけでも、半日は掛かります。東京から尾瀬まで遠征しておいて日帰りでは、如何にも勿体ないと思うのです。

ソロなら夜明け前に出発するところですが、マイカーに同乗してもらうとなると出発は早くて8時が現実的。3連休の関越自動車道は予想どおり大渋滞で、戸倉の第一駐車場に着いたのは12時半過ぎでした。1泊2日の日程にしておいて良かったと内心胸を撫で下ろしました。欲張って牛首分岐からヨッピ橋へ遠回りしたら、東電小屋手前で雨が降り出しました。東電小屋から宿泊先の弥四郎小屋まで40分前後は掛かります。

小屋の庇の下で雨宿りしながら、ザックカバーを装着したりして強い雨に備えました。あと10日もすれば尾瀬ヶ原の山小屋は営業終了です。この時期、急に雨に降られた場合、身体が冷えないようにすることが最優先です。雨が降り出す前に全員フリースを重ね着しておいて正解でした。

弥四郎小屋への到着は予定よりも1時間以上遅れそうです。連絡しようにも周辺ではスマホは圏外でした。すると、たまたま玄関口に出てきた東電小屋のスタッフが弥四郎小屋に(3人の到着が遅れそうだと)電話を入れてくれるというのです。「あっ、その手があったか!」とリーダー役として思慮不足を猛省しました。スマホが通じなくても、山小屋やビジターセンターには衛星携帯電話が備わっています。有事の際は、山小屋のスタッフに頼ることを選択肢に入れておくべきでした。山小屋の夕食は早いので、到着が遅れることを早めに連絡しておけば安心です。

東電小屋のスタッフのご厚意に唯々感謝しかありません。弥四郎小屋には立派なお風呂があります。入浴を済ませたふたりに生気が甦りホッとしました。

2022年菊花賞を振り返って~平地GI・1番人気連敗ワースト記録は「16」に~

先週は私事多忙につき秋華賞を見送り、2022年GIレース・秋の陣は昨日の菊花賞から参戦しました。秋華賞の結果・払戻を見ると、1番人気のスターズオンアースが3着で敗れたものの1~3番人気がすべて馬券に絡んでくれたので、順当なレースだったと言えます。

有力馬不在と言われた混戦模様の菊花賞も蓋を開けてみれば、2番人気のアスクビクターモア(馬番14)がクラシック初制覇。購入馬券は、単勝とワイド(4-14)が的中し、秋の陣は幸先のいいスタートとなりました。歴代競走馬のなかでも一二を争うクラシック三冠馬ディープインパクトを父に持つアスクビクターモアに目をつけて正解でした。写真判定の結果が出るまでドキドキさせられましたが、ハナの差に迫ったボルドグフーシュをかわして、アスクビクターモアは3分2秒4のコースレコードまで叩き出しました。アスクビクターモア同様、ディープインパクトを父に持つ3着ジェスティンパレスも気にしながら投票しなかったのが少し悔やまれます。ディープインパクトは引退後もリーディングサイア―(Leading Sire)として圧倒的な存在感を見せつけてくれます。

2022年菊花賞が済んで、GI・1番人気連敗ワースト記録(平地)は「16」に。過去10年で菊花賞は1番人気が5勝を挙げていたにもかかわらず、アノマリーは不発に終わりました。来週の天皇賞(秋)から数えて今年の平地GIは残すところ9レース。そろそろ、1番人気が浮上してくれるのではないでしょうか。

2023年度末の閉館が惜しまれる棟方志功記念館

2泊3日の慌ただしい青森の旅・最終日にどうしても訪れておきたかったのが棟方志功記念館です。というのは、同館が来年度末(2024年3月31日)をもって閉館することになったからです。今年7月のリリースには、新型コロナウイルス感染症の影響で長期にわたり来館者数が落ち込み財源確保が難しくなったとあります。よほど寂れているのかと思いきや、平日にもかかわらず、受付横のビデオブースはほぼ満席。こじんまりとした館内に30名弱の来館者がいたように思います。

建物は、校倉造り風の設えで池泉回遊式庭園と枯山水庭園を備えています。門柱から建物の全容が見えないところが粋なところです。桂離宮のようにわざと建物入口を隠しているように思えます。建物に入ると右手の階段を上って受付へと導かれます。昭和50(1975)年の開館ですから築47年の建物になりますが、少しも古びた印象を与えません。先のリリースは老朽化やバリアフリー対応の遅れを閉館の理由に挙げていますが、とってつけたような理由づけに思えます。端的に言えば、行政は財源不足を理由にこともあろうに棟方志功を切り捨てようとしているわけです。もしゴッホ美術館(アムステルダム)を閉館してアムステルダム国立美術館に移管するとしたら、オランダ人だって黙っていないはずです。

郷土青森が生んだ世界に誇る天才板画家・棟方志功の画業を末永く讃えるために開設された施設なのに、青森県立美術館に移管し専用展示室を設けるから事足れりとするのはあまりに乱暴です。「世界のムナカタ」なればこそ名を冠した専門博物館があって然るべきです。

(展示室は)「多くの作品を並べるよりも30作品程度の作品をじっくり鑑賞できるような広さがよい」という棟方の強い希望に基づいてつくられたそうです。棟方志功記念館を訪れて心地よく作品鑑賞できた最大の理由は其処にあります。夥しい数の展示資料を並べた展覧会にうんざりしているだけに、年4回の展示替えでじっくり作品を見てもらいたいという展示ポリシーには深く共鳴します。

棟方志功がとても大切にしていたスタインウェイ&サンズ社製のグランドピアノを前景に代表作のひとつ《二菩薩釈迦十大弟子》を撮影しました。大作を鑑賞する上でいかに距離感(ディスタンス)が大切かがよく分かると思います。天井高やゆとりある動線に加え、作品間の適度な余白もしっかりと計算されています。棟方作品を鑑賞する上で最高の環境が調えられていると感じました。

閉館までまだ1年有余あるので、記念館を再訪する機会を窺うつもりです。

展覧会レビュー|「フィン・ユールとデンマークの椅子」展~建築家がデザインした椅子が機能的で美しい理由~

以前、NHKBSプレミアム『美の壺』で「木の椅子」を取り上げた回 (File 124) がありました。今回の「フィン・ユールとデンマークの椅子」展に数多くの貴重なコレクションを出品されている織田憲嗣さんが番組のなかで「精緻に設計された木の椅子には建築家の個性が凝縮されている」と述べていたのが印象的でした。椅子の約8割が建築家のデザインしたものだそうです。

建築家が椅子のデザインを手掛けるのは、(建物の場合とは対照的に)施主の意向や予算など一切気にせず、自分自身の発想をとことん貫けるからに他なりません。アントニ・ガウディフランク・ロイド・ライトも写真で示したような個性的なフォルムの椅子を設計しています。建築家が室内装飾やインテリアに関心を示すのは自然な成り行きと言えるでしょう。椅子づくりが建築の原点なのかも知れません。

ひときわ美しく繊細なフォルムの椅子をデザインしたことで知られるデンマークを代表するデザイナー、フィン・ユール(1912-1989)は美術史家志望でしたが、それでは食えないからと(父親に反対されて)デンマーク王立芸術アカデミーで建築を学んだアーキテクトです。家具デザインに関してはまったくの独学で極めたそうです。

 

展覧会のポスターにもなったフィン・ユールの代表作《イージーチェア No.45》は、アームの優美な曲線がひときわ印象的で「世界で最も美しい肘をもつ椅子」と呼ばれています。「直線は人類に属し、曲線は神に属する」とはアントニ・ガウディの言葉です。フランク・ロイド・ライトが設計した「落水荘」でも《イージーチェア No.45》が使用されていました。フィン・ユールはやがて職人芸の椅子から離れ、機械生産に適したデザインを指向していくことになります。実用的な椅子にさえ高いデザイン性が追求された結果、米国をはじめ海外で高く評価されて、デンマークに逆輸入されることになったそうです。

フィン・ユール以外にも会場には様々な形状の椅子が展示されていました。なかでも、メトロポリタン美術館が購入したとチーク製《メトロポリタンチェア》やラーセンの黒革バックのマホガニー製《エリザベスチェア(U56)》に惹かれました。つい最近逝去されたエリザベス女王が同タイプの椅子を購入したのも、彫塑芸術のような優美なデザインに魅せられたからでしょうか。

自邸の暖炉前で寛ぐために自らデザインした《チーフテンチェア(酋長の椅子)》をテラスに持ち出し、肘に足を乗せたフィン・ユールは如何にも楽し気です。デンマーク王が着座したという代物です。快適な住空間にはこだわりの椅子が不可欠です。

最後の展示室でデンマーク・デザインを実際に体験することが出来ました。「椅子は、誰かが座ってはじめて完成する」とハンス・J.ウェグナーが言うとおり、見ているだけでは椅子の座り心地は分かりません。今回の展覧会を通じて、一番身近な家具である椅子にもっとこだわってみたくなりました。さしずめ、些かくたびれてきた書斎のドレクセルヘリテイジ製チェアの張替えでもしてみましょうか。

(追伸)会期最終金曜日の夕方、雨のなか都美を訪れました。夜間延長日で18時を回ったタイミングでしたが、展覧会会場は大勢の来館者で賑わっていました。図録(税込2900円)も完売。北欧・デンマークの椅子に着目した個性派展覧会の注目度は相当高かったようです。