展覧会レビュー「野蛮と洗練 加守田章二の陶芸」展

今から14年前、東京ステーションギャラリーで開催されたわずか1ヶ月あまりの「20世紀陶芸界の鬼才-加守田章二」展以来となる、東京での作品展が菊池寛実記念 智美術館で開催中です(〜7/21)。都心にありながら、静寂に包まれた極上の展示スペースを擁する智美術館は、加守田章二展にベストマッチでした。

会期前半・後半で少し展示替えがあったようですが、厳選された60点あまりの作品群は加守田が独自の境地で築き上げた多彩な陶芸表現の極みでした。ひとりの作家がこれほど多様で完成度の高い作品を創造してしまうとは、その天賦の才怖るべしです。「曲線彫文」と名づけらた風紋にも似た曲線模様の美しさに圧倒されました。精緻な造形でありながら、まるで大自然が彫刻したかのようです。今年のGWに訪れたばかりのアンテロープキャニオンの螺旋岩のアーチを彷彿させました。

ロクロで挽けないほど石を含み鉄分が多いため「悪い土」と自ら称した遠野の土を自在に操り、加守田は「曲線彫文」作品を通じて、彩色作品とは対照的な強烈な存在感の創出に成功しています。最後の展示室に集約された「曲線彫文」作品群のなかで、とりわけ「曲線彫文鉢」(1970年)に惹かれました。33センチ幅のどっしりとした大鉢の上下左右にうねるようなフォルムの力強さと完成度の高さには目を瞠りました。「野蛮と洗練」と題された展覧会タイトルは、加守田章二の作品世界の本質をついたネーミングだと感心しました。1983年2月、49歳という若さでこれほどの才能の持ち主が世を去ったのは、陶芸界の大きな損失だったに違いありません。

装丁がオシャレなので図録を購入したのですが、写真図版が全体に昏い上に解像度がイマイチで、作品の繊細な味わいを表現できていない点が悔やまれます。展覧会後に、お気に入りのVoie Lacteeでランチと思っていたのですが、この3月に営業を終了していました。現在、そのスペースは少し殺風景な休憩スペースとして開放されています。しばらく腰掛けて美しい庭園を眺めてから、会場を後にしました。

「神田きくかわ」日比谷店で特撰丼を頂く

週末、出光美術館を訪ねる度に帝国劇場B2の神田きくかわ日比谷店に足を運びます。大抵、その日は日曜日でお店の休業日、お店の前に来て気づくというマヌケぶりを重ねています。昨日は幸い土曜日で、実に久しぶりに、日比谷店の鰻丼にありつけました。注文したのは「特製丼」(1日限定35食だそうです)。税抜き4450円でした。なんとリーズナブルなお値段。ご飯は大盛りに出来ると聞いて、そうしました。しばらくすると、お膳と共に大きな丼に肝吸いと香の物が運ばれてきます。そのボリュームたるや予想以上で、思わずニンマリしてしまいました。蓋を開けると、見るからに身も厚く脂がのった鰻が三切れ、その下のご飯を覆いつくしています。老舗きくかわのこだわりだそうです。

早速、頬張ると、これがふっくらして絶品なのです。香りやタレの甘さ(レンゲの蜂蜜を使っています)も文句なし。背開き⇨白焼き⇨蒸し⇨タレをつけて再び焼きという江戸前プロセスを忠実に守っているだけではなく、産地直送の鰻はいったん用賀ICに近い上野毛店の「立て場」で地下水に潜らせ1〜3日休ませて、各店舗に使用される日に配送されます。そうすると、身が引き締まるのだそうです。この日は、同伴妻の実家に近い三河一色産の鰻でした。納得の旨さでした。テーブルに置かれたタレを丼に追加できる点も気に入りました。かれこれ7〜8年余りご無沙汰でしたから、供された丼に新鮮な驚きさえ感じました。お店の雰囲気も昔と変わらず、店員の接客も合格点!ほかの店舗を知らないだけに、アクセスのいい日比谷店はこれからも健在であって欲しいものです。

レジを済ませて、振り返ると、初老の男性がひとり、またひとりと暖簾をくぐっていきます。鰻好きはこうでなきゃと内心つぶやいてしまいました。今度はひとりで来ようとも。気懸りなのは、夏場の鰻不足。レジ脇のポスターを読んで、近い将来、鰻が食べられない日が来るかも知れないとあらためて危機感を募らせたのでした。今のうちに食べ尽くしてしまおうと、独り善がりの煩悩が頭をよぎりました。

東京五輪チケット家族4人全滅

6/20、午前10:00に「厳正なる抽選を行いまし結果、誠に残念ながら、申込いただいたチケットをご用意することはできませんでした」とつれないメールが組織委員会から届きました。8セッション、総額44万円相当の申込が一枚も掠らないとは、いやはや驚きました。妻とふたりの息子も落選。次男はテニスを中心に90万円近く申し込んでいましたから、かなり落胆している様子。

夕方のネットニュースによれば、開会式の当選確率は0.7%だとか。全種目が抽選だったと報じられ、これまた吃驚。それにしても、4人家族で応募して1枚も当たらないというのは想定外。天文学的な競争率だったことは疑いの余地はありませんが、そこかしこから怨嗟の声が聞こえてきます。友人ひとりが、体操女子予選に当たったのが、知り得るかぎり唯一の当選事例。

念のため、午後、公式サイトにアクセスすると、113万人待ち。1時間以上かけてマイチケットへたどり着き、申込8セッションすべての落選を確認しました。カスケードにもエントリーしましたが、無念の敗退でした。

秋冬の陣で先着順販売にかけるしかありません。またしても熾烈なチケット争奪戦になること必至。テレビ観戦でいいという輩もいますが、熱い夏こそ、熱き戦いの現場でエールを送りたいものです。今年後半戦の運気や如何に!

特別展「巨星・松本清張」を振り返って

この2ヶ月余り、本業とボランティア団体の記念誌づくりに忙殺されて、ブログの更新が出来ませんでした。30日も経ってから記憶をたどって書くというのは、しんどい上に面倒極まる作業です。さはさりながら、最長GWに海外で大自然を満喫するという得難い体験もあったりして、数日かけて何とかブログの空白期間を埋めようと心に決めたところです。

先ずは、神奈川近代文学館で開催された特別展「巨星・松本清張」を振り返ります。会期終了の前日、駈込みました。松本清張(本名:きよはる)は1909(明治42)年生まれ、同い年の作家には、太宰治大岡昇平中島敦埴谷雄高がいます。いずれもブロガーのお気に入り作家です。今年は生誕110年に当たります。中島敦は33歳で、太宰は39才の誕生日直前に他界していますから、清張(歿後27年)と同い年と聞いて違和感を感じる方も少なくないでしょう。

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小倉生まれの定説に対して、広島生まれという有力な異説もあるようです。生家が貧しかったため、尋常高等小学校を卒業した後、文学に目覚めたものの、なかなか働き口が見つかりません。給仕を務めた後、小倉の印刷所で見習い工になった頃から転機が訪れます。自営の版下職人を経て、1940年に朝日新聞西部支社の常勤嘱託に転じます。1944年6月に召集されて兵役に就きますが、ニューギニア戦線への派遣が中止となり、朝鮮で衛生上等兵として終戦を迎えます。出征前に死を覚悟した清張は愛蔵の本に蔵書印を捺したそうです。戦争が清張さんの命を奪わなかったのは僥倖でした。

会場で初めて目にする端正な生原稿やスケッチのクオリティの高さに、先ず驚かされました。作家デビュー前に広告デザイン界で活躍した経歴を知らなかったからです。41歳で懸賞小説に入選し、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞という遅咲きの苦労人清張さんではありますが、その筆力も画才もまさに天下一品です。聞きそびれた講演のなかで、阿刀田高さんは「こんなに死後も人気が高い作家も珍しい」と仰ったそうです。92年の死去までに書いた作品は1千篇近いのだとか、まさに巨星です。丹念な取材に裏づけられた構想力と旺盛な創作意欲には脱帽です。学歴は尋常高等小学校卒でも、若い頃の旺盛な文芸書漁りを血肉化して、大作家へと上り詰めた清張さんは実に偉大です。とりわけ、歴史や社会問題への目配りや深い洞察力には心底感心させられます。

1964年、清張さんは55歳にして初めて海外旅行に出掛けます(1964年海外渡航自由化、1966年に年1回の渡航制限撤廃)。古代史ブームの牽引役のひとりであった清張さんは、アジアや中東にも目を向けます。その好奇心たるや、とどまるところを知りません。自作の映像化にも関心を示し、野村芳太郎監督と霧プロダクションを設立します。

「清張山脈」とは言い得て妙。その昔、『日本の黒い霧』やノンフィクションの名作『昭和史発掘』を貪り読んだ記憶があります。作品分野が多岐にわたるなか、今も版を重ねる「張込み」や「駅路」(いずれも新潮文庫)など、短編にも触れてみようと思っています。

参考:朝日新聞朝刊4面(2019-5-25)

NHKスペシャル「東京超高層シティ 光と影」(2019/4/6放映)を見て

元号移行まであと8日。平成を振り返るテレビ番組が目白押しのなか、4/6に放映されたNHKスペシャル第6回「東京 超高層シティ 光と影」と題する番組は、実に興味深い内容でした。 失われた20年と呼ばれるように、バブルに踊らされた日本経済は気がつけば不良債権の山を抱え、1990年代前半から塗炭の苦しみを味わいました。今回のNスペは、そんな未曾有の逆境にあって、首都東京が高層都市化に大きく舵を切って、2020年の東京オリンピックを前に大きく変貌を遂げた背景に迫りました。

番組は、冒頭、平成30年間に高さ100mを超える高層ビルが三大都市圏に448棟誕生したと紹介します。100mと言われてもすぐにはピーンと来ませんが、身近になったタワマン(高さ60m超又は20階以上)30階の屋上に相当する高さです。448棟のうち実に7割近くは東京圏で建設されたそうです。今や、東京は、オフィス床面積でNYやロンドンを凌ぐというから驚きです。

高層都市化を紐解くキーワードは「空中権」の売買。JR東日本が、丸の内の大家さんこと三菱地所に持ちかけたのは、500億円で東京駅の「空中権」を買わないかという提案でした。「空中権」を売却して得た資金を東京駅丸の内駅舎の復原費用に充当するというのがJR東日本の腹積もりでした。当時の東京駅周辺の容積率は1000%、高さ制限は31m(8階建相当)でしたから、丸の内仲通りを挟んだビル群は圧迫感のない高さに抑え込まれていました。ここでふと思い出されたのは、猪瀬直樹の『ミカドの肖像』冒頭の下りでした。日比谷通りに面した東京海上が、高さ128m、30階建の本社ビルを申請したところ、許可が下りるまで何年もたらい回しにされ、挙句、高さ99.7m・25階建しか建設出来なかったというエピソードのことです。天皇をめぐる不可視の禁忌、すなわち、皇居を見下ろしてはならないと国も東京都も真面目に考えていたわけです。

JR東日本の提案は、バブル崩壊後テナント集めに苦労していた三菱地所には渡りに船。ところが、東京都は当然のことながら難色を示します。こうした提案が、都心一極集中を排して新宿副都心をはじめとする広域に都市機能を分散させたいという都の方針に反するものだったからです。今日、美しくファッショナブルな街並みに生まれ変わった丸の内界隈や5年に及んだ復原工事でかつての姿を取り戻した東京駅丸の内駅舎を眺めていると、当初の行政の対応には当然ながら首を傾げざるを得ません。「空中権」の売買を後押ししたのは、石原元都知事と小泉元首相の英断でした。首都東京の未来図を透視したふたりの政治家の決断が、東京の顔東京駅丸の内駅舎を復原させたのです。松田昌士JR東日本元社長が、現・東京駅(中央停車場)を設計した辰野金吾を「(明治人は)教養の基礎が違う」と形容したのは至言だと思いました。

一方、六本木6丁目で再開発を手掛けていた森ビルに、米投資銀行の雄ゴールドマン・サックスは巨大地震でもビクともしないオフィスビル(六本木ヒルズ-2003年竣工)でなければ入居しないと迫っていました。故森稔社長は当時、その要求に応える形で世界で最も安全な防災システムを作り上げようと決断します。森ビルは、今日では広く普及しているオイルダンパーを使って高層階の揺れを抑える工夫に加え、地下6階部分に100億円という莫大なコストかけて自家発電施設を設けることになります。自家発電施設といっても、その発電能力は3万8650kw。都心の発電所(都市ガスによる)といって過言ではありません。2011年の東日本大震災のとき、計画停電で街の灯りが消えるなか、六本木ヒルズ東京電力に余剰電力4000kw(一般家庭1100世帯分に相当)を供給していたのだそうです。都心を震度5強という大きな揺れが襲ったのに免震構造が奏功、最上階でグラスひとつ割れなかったといいます。

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丸の内と六本木の再開発にまつわるこうした逸話を知って、大都市東京の街づくりにおいて大手デベロッパーが果たした役割に敬意を表したいと思います。ただ、惜しむらくは、19世紀にジョルジュ・オスマンが取り組んだパリ大改造と比較すると、東京の街並みは不揃いで統一的美観への配慮が些か欠けているように感じます。番組では影の部分への言及に消極的でしたが、人口減少社会にあって空き家が深刻な社会問題と化しているように、近未来に超高層ビルが廃墟にならないという保証はないでしょう。今も進行中の数々の都心大型プロジェクトは成算あってのことを思いながら、一抹の不安も頭をよぎります。

生食パンブーム〜LA PANのクリーミー生食パン〜

最近、知人から「クリーミー生食パン」を頂戴しました。ピアノ鍵盤をあしらった紙袋がとてもチャーミングです。隣駅の武蔵境に今年1月にオープンしたばかりのLA PAN(ラ・パン)というパン屋さんの製品です。メディアで取り上げられることの多い「乃が美」(都内には麻布十番にしか店舗がありません)の生食パンが気になっていたこともあり、早速、試食してみました。

ほのかで上品な甘みがあって、そこいらの食パンとは次元の異なる美味しさです。美味しさの秘密は生地に練り込まれた蜂蜜にあるようです。パンフレットを読むと、卵もイーストフード(イースト菌を活性化させる食品添加物)も不使用とあります。トーストで焼いたり、サンドイッチも試してみましたが、バターもジャムもつけずにそのまま食べるのが一番美味しく感じられました。<生食パン>という聞き慣れない言葉は、どうやら、何もつけずにそのまま食べるという意味らしいのです。「高級「生」食パン」という名称については、2015年4月に乃が美の商標登録が認められています。後発のラパンの「クリミー生食パン」は称呼類似にあたりそうですが、消費者としては近所で美味しい食パンが入手できれば名前なんて気にしません。

最後にコスト比較をしておきます。日常的に我が家の食卓に上るヤマザキロイヤルブレッド(2012年発売)は1斤(6枚切り)231円。乃が美は1斤税込432円、ラパンのSサイズ(1斤に相当)は税込440円ですから、生食パンの価格は2倍弱。贈り物として重宝されそうですが、原材料にこだわって作られているので許容範囲の価格帯ではないでしょうか。現に、乃が美は順調に店舗拡大を続けており、現時点で125店舗。消費者は価格に見合った高品質な商品だと判断すれば、財布の紐を緩めてくれるのですね。

日本近代文学館のカフェレストラン「BUNDAN」〜生誕110年太宰展とともに〜

先週末、日本近代文学館(目黒区駒場)で開催中の「生誕110年太宰治 創作の舞台裏」展を訪れました。界隈にはお気に入りの日本民藝館がありますから、駒場は決して疎遠な場所ではありません。ところが、ついでに立ち寄ればいいものの、日本近代文学館とはずいぶんご無沙汰でした。1967年竣工の日本近代文学館の第一印象は古びた所蔵庫、展覧会も地味で正直あまり惹かれなかったからです。今回、久しぶりに訪れてみて、そんな勝手な思い込みを大いに反省しました。太宰展は初日、若い人を多く見かけました。最近、発見されたという『お伽草紙』の完全原稿や『富嶽百景』冒頭の典拠資料(『富士山の自然界』)など、見所たっぷりでした。さすが、太宰研究第一人者安藤先生の編集だけあります。春陽堂書店刊行の図録の出来栄えも良かったので、帰り際に買い求めました。

驚いたのは、併設カフェレストラン「BUNDAN」(9:30〜16:30)が大賑わいだったこと。2012年に旧すみれ食堂の後釜に入ったのが、Coffee & Beer BUNDAN。天井にまで届く入口右手の書棚には、オーナー草彅洋平さんの蔵書約2万冊が収まっています。これだけなら、最近流行りのブックカフェと大して変わりませんが、メニューには様々な工夫が凝らされていて文学マニアのハートを鷲掴みにするのです。梶井基次郎の『檸檬』に因んだ檸檬パフェや文人御用達の銀座「カフェパウリスタ」で提供されていたブラジルコーヒーを再現したりと、作家や作品を連想させるメニューが目白押しです。坂口安吾好みの「焼鮭のサンドイッチ」なんて粋じゃありませんか。入口付近のショーケースには、川端康成愛用の原稿用紙や作家グッズが陳列販売されています。遊び心満載の「BUNDAN」の隠れ家っぽい雰囲気も魅力のひとつです。とにかく混み合いますが、天気のいい日はコーヒーをオーダーして、建物1階のテラスに移動して寛ぐ手もあります。唯一の難点は、活字文化の凋落のせいでしょうか、日本近代文学館は月曜日だけでなく、日曜日と第4木曜日も休館だということ。お出かけの節は、休館日に要注意です。