ジャスティンミラノが亡き藤岡康太騎手に捧げた2024年皐月賞V

今月6日、阪神競馬場7Rで落馬した藤岡康太騎手が、4日後の10日、35歳で亡くなりました。遡る3月30日には、2023年度のリーディングジョッキールメール騎手がドバイターフで落馬して、肋骨と鎖骨を骨折し肺にも穴が開いていたと報じられています。檜舞台のGIレースばかりが注目されますが(自分もGIレースしか馬券を買いません)、勝利数(1着)ランキングトップ10に入るJRA騎手の年間騎乗回数を調べてみると、10位の武豊騎手は505回、4位の松山弘平騎手の騎乗回数901回がトップでした。想像していた数字を遥かに上回る騎乗回数です。

亡くなった藤岡康太騎手の2023年度の勝利数は13位、騎乗回数は698回を数えました。日刊スポーツによれば、レース中の落馬事故で死亡した騎手は1954年以降で20人目だそうです。GI2勝の藤岡康太騎手だからこそ、その早すぎる死を大きくメディアが取り上げますが、報じられることない練習中の死亡事故や怪我を含めれば、相当な数になるのではないでしょうか。軽やかな身のこなしでサラブレッド馬を巧みに乗りこなしているように見えて、騎手は常に命懸けでレースに臨んでいるのです。このことを痛いほど思い知らされました。僅か数分のレース結果だけに一喜一憂するだけでなく、競馬ファンなら騎手が紡いできた競走馬との絆に思いを馳せて観戦すべきです。

3歳三冠の第一関門・第84回皐月賞を制したのはジャスティンミラノ。混戦模様だったレースのゴール直前、首ひとつ抜け出しての勝利でした。レース直前の速いタイムの調教を追い切りといいます。栗東ジャスティンミラノの追い切りを務めたのが藤岡康太騎手だったそうです。最後に攻めの調教をつけた藤岡康太騎手のお手柄でもあったわけです。友道康夫厩舎の友道調教師は、ゴール前で「康太」と叫んでいたと言います。

新緑のなか、鎌倉アルプスを縦走中にラジオの実況で2番人気ジャスティンミラノの優勝を知りました。単勝とワイドが的中、亡き藤岡康太騎手の想いを知り、3戦3勝のジャスティンミラノを益々応援したくなりました。

「日枝神社」で初お宮詣り

先週末、初孫(ゆうと君)のお宮詣りに日枝神社を訪れました。例年より桜の開花が遅れてくれたお蔭で、桜を愛でながらのお詣りになりました。母子共健やかにこの日を迎えられた上、お天気に恵まれたので、初の野外イベントに臨んだゆうと君は《持ってる》と言えそうです。本殿向かって右側の藤棚でもちらほら藤が開花しています。ご祈祷は本殿北側にある祈祷殿で行われました。時間にして30分弱、古式に則り念願の抱っこが叶った妻は、終始ご機嫌でした。神主さんが祝詞をあげている間、少しぐずっていたゆうと君でしたが、雅楽が始まるとすっかり大人しくなりました。太鼓の大きな音に少しびっくりしたようですが、神楽鈴の音色は心地よく響いたことでしょう。

日枝神社は、江戸城の鎮守として徳川家に篤く崇拝された由緒正しきお社です。ご朱印には対角線上に社紋の双葉葵紋があしらわれ《皇城之鎮 日枝神社》とあります。ご祭神は山の神様として知られる大山咋神(おおやまくひのかみ)。大山咋神の別名が山王ですから、山王日枝神社とも呼ばれます。日枝は比叡山の「ひえ」に由来します。比叡山の麓にある日吉大社も昔は「ひえ」と呼ばれたそうです。

江戸城の鬼門は神田明神、南西の裏鬼門にあたるのが日枝神社です。高層ビルが林立する都心にあって、明治神宮と並ぶ屈指のパワースポットではないでしょうか。クルマからよく目にするのは外堀通りの山王鳥居、山王下交差点からぐるり時計回りすると古い山王鳥居が現れます。52段の階段を上ると正面が拝殿になります。

拝殿の両脇に鎮座するのは、狛犬ならぬ2体の夫婦猿。日枝神社の神様のお使いは《神猿(まさる)》。「魔が去る」・「勝る」に繋がり厚く信仰を集めています。子ザルを抱えた母親ザルに安産祈願した甲斐あって、ゆうと君はすくすく育ってくれています。

2024年大河ドラマ「光る君へ」と『源氏物語』

番組タイトルは光源氏、今年の大河ドラマはてっきり『源氏物語』の話だと思っていました。番組が始まるまで、番宣含め一切の雑音に耳を貸さなかったからです。第1回を視聴して『源氏物語』の作者・紫式部が主人公だと初めて知りました。紫式部を演じるのは「花子とアン」(2014)で主人公・村岡花子を好演した吉高由里子さん。演技力のある女優さんだけに、今後の展開が楽しみでなりません。回を重ね3ヶ月が過ぎましたが、so far so brilliant!

世界最古の長編恋愛小説を残した才女でありながら、紫式部の生没年すら分かっていません。『枕草子』の清少納言然りです。第13回(「進むべき道」)まひろは数年ぶりに嫡妻の家で道長とばったり再会します。道長配下の者は道長に対し、まひろを藤原為時の女(むすめ)と紹介します。平安時代中期に書かれた『更級日記』の作者も菅原孝標女です。男性中心社会でかつ一夫多妻制の御代にあっては、才長けた女官でさえ恰も男性の従属物のように扱われていたことがよく分かります。


(写真:NHK

道長柄本佑)の妻倫子(黒木華)から請われて出向いたまひろ(吉高由里子)が見せられたのは、道長が隠し持っていたという文。あろうことか、まひろが道長に送った帰去来の辞を認めた文でした。道長から文を貰ったことのない倫子は、そうとは知らず、女文字で書かれた文を一体誰が認めたのかと訝しがります。まひろが道長の元カノだとは知らない倫子。まひろは、早々に話を切り上げ辞した矢先に道長と再会します。不倫、略奪愛に始まり、ありとあらゆる恋愛を描いた『源氏物語』を地でいくスリリングな展開なのです。

「光る君へ」を英国貴族たちの生活を描いた「ダウントン・アビー」の平安版に喩えたのは三谷幸喜です。長く読み継がれてきた『源氏物語』は、谷崎源氏、円地源氏、瀬戸内源氏等、近・現代の小説家がこぞって現代語訳に挑み、コミック化(『あさきゆめみし』)もされています。古今東西、下々が窺い知ることの出来ない上流貴族の生活を覗き見るような感覚が読者を誘惑してやまないのでしょう。

生没年不詳の主人公・紫式部の生涯は謎めいています。史実では、まひろは父為時(岸谷五朗)の良き相談相手でもある藤原宣孝佐々木蔵之介)と結婚し一子を授かります。「虎に翼」の主人公なら「はて」を連呼する急展開です。ミッシングピースだらけの紫式部の生涯は、ベテラン脚本家・大石静さんの手にかかればきっと生き生きと甦るに違いありません。虚実内混ぜのドラマティックな展開を想像しながら、今からワクワクしています。

連合赤軍・山岳ベース事件|遠山美枝子さんの死の真相

先月、朝日新聞夕刊に5回に渡って連載された記事《「連合赤軍指輪物語》は、常軌を逸した連合赤軍・山岳ベース事件を今一度振り返る意味でいいきっかけになりました。《指輪物語》というセンチメンタルなタイトルは、長年沈黙を守ってきた遺族の語った真相とは凡そ似つかわしくないものの、その内容は52年前に起きた凄惨な事件の隠された真実を詳らかにしてくれます。

山岳ベース事件の犠牲者のひとり、遠山美枝子さん(当時25歳)の母・幸子さん(100歳)は関東圏の特別老人ホームで暮らしています。これまでメディアの取材に一切応じて来なかったといいますから、幸子さんが公開した獄中の加害者らと交わした書簡の中身は驚嘆すべき内容ばかりです。震怒を抑えきれない幸子さんの往信に対して、加害者・被告人から生々しい殺害現場の様子が伝えられ、深い反省が窺える返信が幸子さんに届いていることに名状し難い安堵を覚えました。

美枝子さんが属していたのは赤軍派。最高幹部・重信房子の盟友でもありました。弱体化しつつあった赤軍派は革命左派と合体し「連合赤軍」と名を変えて再編されます。遠山美枝子さんは、明治大学在学中に赤軍派に加わり革命左派との合同軍事訓練の最中、所謂「総括」要求を再三受けて、山梨から榛名ベースに移動した後暴行を受けて死亡します。

指導的立場の永田洋子(2011年獄中で病死)は、遠山美枝子さんの金の指輪を結婚指輪と勘違いし「革命戦士としての自覚に欠ける」と糾弾し、「総括」に名を借りた集団リンチで死へ追いやります。髪型や女性らしい仕草などが批判の対象とされたのです。金の指輪は、母・幸子さんが成人式のお祝いで贈ったものでした。美枝子さんは交際していた赤軍派最高幹部が逮捕されたことで窮地に立たされます。交際相手が「同志」であるはずの美枝子さんを都合のいい「秘書」扱いしたことが、対立する幹部らの苛立ちを昂じさせ、凄まじい暴力へとエスカレートしていったのです。作家であり政治活動家の雨宮処凜は「クソヒモニート!!」と叫びたくなると、この自称「革命家」を断罪します。

夫を早くに亡くした幸子さんは、働きながら3人の娘を育て上げ、全員四年制大学を卒業させた逞しい母。困難に負けない強く逞しい母親が眩しい存在だったからでしょうか、美枝子さんは死に際まで「お母さん見てて美枝子頑張るから」「お母さん今に幸せにしてあげるから」と呟いていたそうです。永田洋子は「粛清を疑問視し仲間を決して殴ろうとしなかった遠山さんが正しかった」と幸子さんへ返事を認めています。

『改訂増補版 兵士たちの連合赤軍』(彩流社)の著者・植垣康博(当時23歳)は、作中で遠山さんの死に触れ、急変した彼女の容態に気づいた「同志」が30分以上人工呼吸を続けたと記しています。わずか2ヶ月で12名が死亡し、残ったメンバーから脱走者が相次ぎ、組織は自壊の一途をたどります。10日間に及んだ残党による最後の抵抗があさま山荘事件です。

連合赤軍が陥った狂気は、決して特異な現象ではなく、先鋭化した組織・集団が陥りやすい心理状態なのだと改めて感じています。世の中を震撼させた山岳ベース事件でさえ、半世紀経てば、忘却の彼方です。こうしてメディアが取材を重ね振り返りすることで貴重な教訓が甦ります。遺族は死ぬまで事件のことを忘れません。杳として行方知らずだった形見の指輪(東京地検保管)が43年ぶりに遠山家に返還されたのは、事件から43年後の2015年。遺族に寄り添った一警官が奔走した結果だそうです。

東京裁判と「殉国七士廟」

春のお彼岸に義父母の墓参のために妻の故郷・愛知県・西尾市に立ち寄りました。その足でかねてから一度お詣りしたいと思っていた「殉国七士廟」を訪ねました。愛知県・三河湾を臨む三ヶ根山頂(321m)に、東京裁判極東国際軍事裁判)で絞首刑を言い渡された七名の合祀墓「殉国七士廟」があるからです。昭和23年(1948年)、A級戦犯が起訴されたのは4月29日、そして起訴されたA級戦犯28人のうち、7人が処刑されたのは昭和23(1948)年12月23日です。当時の昭和天皇の誕生日にA級戦犯の起訴がなされ、皇太子(現上皇陛下)の誕生日にあたる12月23日に処刑が行われたのです。戦後、国民がこぞって祝福すべき日に忌まわしい記憶を呼び起こすための意図的な仕掛けとしか思えません。

A級戦犯が将来英雄視されることのないよう極秘裡に処刑・火葬がなされたわけですから、遺骨が家族に渡ることを占領統治国・アメリカ合衆国が許すはずはありません。何としても遺族のために遺骨を取り戻したいと考えた三文字正平弁護士(小磯国昭元首相の弁護人)が火葬場となった横浜市久保山の興善寺住職の協力を得て、米兵監視の目を盗んで遺骨を奪取します。しかし、隠した場所に香を焚いたため、米兵に遺骨を発見され没収されてしまいます。それでも諦めきれないふたりは深夜に骨捨場に忍び込み、遺骨と遺灰を入手します。

七士とは縁もゆかりもない幡豆町(現・西尾市幡豆町)・三ヶ根山に「殉国七士廟」が設置されたのは、東京裁判弁護団のスポークスマン・林逸郎氏と懇ろになった地元県議の奔走の賜物だそうです。三ヶ根山スカイライン経由山頂に至ると「殉国七士廟」と記された重厚な門碑が迎え入れてくれます。揮毫したのはA級戦犯容疑で拘留され後に釈放された岸信介元首相です。墓碑が整ったのは昭和35年のことです。戦後15年目とはいえ、処刑された7人への世情は依然険しく、資金集めも苦労したのだそうです。合祀墓の手前に立派な「殉国七士廟由来」碑があって、三文字弁護士の直筆で建立の経緯が克明に記されています。死屍に鞭打つ戦勝国・米国の仕打ちに憤りを覚え、何としても遺族に報いたいという氏の率直な思いが伝わってきます。心根において共感できるものです。

生憎の雨で訪れる人は我が家以外皆無でしたが、お彼岸だったので、四隅に生花が供えてありました。刑場の露と消えた7人を殉国七士と讃えることに躊躇いこそありますが、戦後、若い世代が忌まわしい歴史と向き合い対話するためのモニュメントだと考えれば、十二分なレゾンデトールが認められるのではないでしょうか。

少し前、NHK映像の世紀バタフライエフェクト》で「映像記録 東京裁判」を視聴したばかりだったので、文官でありながら唯一処刑された広田弘毅には同情を禁じ得ません。判事の判断も拮抗し6-5の薄氷差で絞首刑が決まっています。一方、歴史探偵を標榜し昭和史の泰斗だった故・半藤一利さんは、加藤陽子との共著『昭和史裁判』のなかで、城山三郎の代表作のひとつ『落日燃ゆ』の広田像は実像から乖離し過ぎていると手厳しく批判しています。ウェッブ裁判長の絞首刑判決を聞くや、外交官だった広田は翻訳を待たずヘッドセットを外します。判事らに深々と頭を下げると、2階席で傍聴するお嬢さんを見上げ、目を細めて会釈し静かに退廷します。冒頭陳述で請われて「無実」と発言した以外、沈黙を貫いた広田弘毅は、一切の責任を引き受ける覚悟で2年6ヶ月に及んだ戦勝国の裁判に臨んだのでしょう。海軍出身の3人が絞首刑を免れ、文官の広田弘毅が絞首刑では明らかにバランスを失しています。

番組末尾で戯曲・東京裁判三部作を著した井上ひさし東京裁判を評した言葉<瑕こそ多いが、血と涙から生まれた歴史の宝石>が紹介されます。氏は勝者が敗者を裁く東京裁判には問題が多いと指摘しつつも、<歴史の宝石>だと結論づけます。では、「瑕」とは一体何か。本来、国民自らが厳しく問うて然るべき戦争責任から目を背け、東京裁判を無視したことだと井上ひさしは言います。「殉国七士廟」は、戦後、国民の大多数が目を背けてきた東京裁判に今一度立ち戻り考えるきっかけ与えてくれる記念碑なのです。

「オレンジワイン」 vs 「赤ワイン」

「芸能人格付けチェック」は妻が好きな番組のひとつ。お正月特番だけかと思っていたら、先週、<BASIC~春の3時間スペシャル~>が放映されることに気づいて、録画しておきました。<BASIC>篇だけあって、チェック1は「赤ワイン」と「白ワイン」を飲み比べ、どちらが「赤ワイン」かを当てる問題です。

普段からワインを嗜む人なら、決して間違えようのない問題に見えますが、参加6チームで正解したのは1チームだけ。お笑い芸人はともかく、参加者には常日頃から高級店に出入りしていると思しき一流芸能人も含まれていますので、驚愕の結果です。お茶の間の視聴者は実際に試飲できないので、不正解だった芸能人を見下す資格はありません。参加者は目隠しされている上、試飲できるのはごく少量ですから。

テレビに映った「白ワイン」の色が琥珀色に見えたので、ピーンと来ました。「赤ワイン」と誤認させられたのは「オレンジワイン」だったのです。琥珀(amber)色ですから「アンバーワイン」と呼ばれることがあります。通常、「白ワイン」は果皮や種を取り除いてから粉砕されます。ところが、「オレンジワイン」は白ブドウを使いながら、果皮ごと醸造されるので鮮やかなオレンジ色が抽出されるというわけです。

「黒ブドウ」から作られるのが「赤ワイン」、「白ブドウ」から作られるのが「白ワイン」だと知っていても、醸造法が同じだとすると、「赤ワイン」と「オレンジワイン」をブラインドテイスティングで区別するのは簡単でないのかも知れません。

イタリアワイン専門店TUSCANYが番組で使用されたワインを紹介しています。「白ワイン」だと誤認されたのは、スペイン・カナリア諸島産の「ベンヘティント」。ブドウ品種はリスタンプリエト種主体だそうです。先ずはめったに宅飲みすることのないジョージア産「オレンジワイン」を早速発注したので、近々、飲み比べてみることにします。因みにオレンジワインの産地・ジョージアは、ワイン発祥の地として知られています。

NHK Eテレ・桂文枝師匠の「最後の講義」~医師に求められる基本的な資質~

六代目桂文枝師匠は1943年7月16日生まれ。去年、傘寿を迎えられて、全国各地で傘寿記念落語会が開かれています。今年6月、銀座で開催される<文枝師匠!傘寿おめでとう!『文枝と小朝の二人会』>に申し込んでありますが、ここに限らずどの会場も抽選制のようです。抽選結果はどうなりますやら。過去数度、文枝師匠の噺を聞いたことがありますが、毎回、お腹がよじれるくらい笑わせてくれます。軽妙な語り口に加え、軽快なテンポで次々と繰り出されるネタが面白すぎて、笑いが途切れる刹那が殆どありません。文枝師匠が得意とするのは創作落語。これまでに拵えた落語は324題に上るそうです。書庫に収まった厖大なネタ帳こそ、師匠の落語家魂そのものです。古典落語もネタ下ろしのときは新作落語。昭和から平成、令和へと移ろいゆく世相を鋭い観察眼であぶり出すことにかけては、師匠を凌ぐ落語家は見当たりません。余人をもって代えがたいとはこのことです。

最近、Eテレで放映された師匠の「最後の講義 (The Last Lecture)」を視聴しました。番組HPには、「もし人生が最後だとしたら、何を伝えたいか・・・」各界第一人者が語る珠玉のメッセージとあります。過去登壇したのは、ジャズピアニスト山下洋輔、女優岩下志麻、建築家伊東豊雄、三國シェフなど錚錚たる方々です。

師匠が希望した聴講生は医学部の学生に研修医を含む現役医師(会場:東邦大学大森キャンパス)。冒頭、病院待合室の患者さんをネタにここ一番の「つかみ」を披露します。最初から最後まで想像していた講義とはずいぶん違っていましたが、胸にぐっと来る内容でした。番組をDVDに焼いて外科医の息子に見てもらうつもりです。

2021年1月、師匠は妻・真由美さんと母親・治子さんを相次いで喪っています。銀行員だった父・清三さんは、病を抱えていたにもかかわらず徴兵され、訓練中に28歳の若さで戦死しています。生後11か月で清三さんは亡くなっていますから、父親の顔を師匠は写真でしか知りません。母親から真面目一徹なお父さんだと聞かされてはいましたが、実は落語好きで、勤務先でも度々聞き覚えたばかりの小噺を披露していたのだそうです。血は争えません。母子家庭で育った師匠が真っ当な人生を歩めるようにと、母親は清三さんのことを折り目正しい人柄だと伝えていたのでしょう。大学に入学し、落語に目覚めて落語家を志したとき、母親から怒られたと師匠は回想します。デビュー後、瞬く間に落語界の寵児となった師匠の人生は順風満帆だとばかり思っていたので、しんみりさせられました。

講義の前に、師匠から聴講生に次のようなお題が与えられました。お弟子さんにも似たようなお題を与え、師匠が逐一採点するそうです。患者の「白い錠剤です」に続けて、聴講生は医者の立場で気の利いた返事をしなければなりません。初対面の患者さんの緊張を解きほぐすようなユーモア溢れる解答に師匠は期待しているようです。模範解答は末尾に記しておきます。最近は電子カルテばかりに気をとられ患者さんと対面しない医者が増えています。コミュニケーション能力に大きな疑問符がつく医者も少なくありません。どうせなら、思わず会話が弾むような、優しくてユーモアや機知に富んだお医者さんに診てもらいたいではありませんか。

医者「いつも飲んでいる薬はあるのですか?」
患者「あります!」
医者「どんな薬ですか?」
患者「えーっと、よく分かりませんが、白い錠剤です」
医者「各自・解答

師匠曰く<人は生まれたときと死ぬときお医者さんの世話になる>。これが聴講生に医師の卵と現役医師を選んだ理由だそうです。師匠は他界した妻や母親に1日でも長く生きて欲しかったといいます。患者さんに寄り添い患者さんの命を何としても救うのだという強い意志を持った医師になって欲しいと師匠は結びます。限りある命だからこそです。

医者「分かりました、今ので一万種類まで絞れました」